懐メロよもやま話



五木ひろしの「浜昼顔」
「浜昼顔」は昭和49年、古賀政男作曲、寺山修司作詞で五木ひろし歌ですが
原曲は昭和11年の「さらば青春」佐藤惣之助作詞、歌は藤山一郎です、詩は佐藤惣之助のページに載ってますのでそちらをご覧ください。
さらに昭和30年に青木光一の歌で「都に花の散る夜は」で発売されています。
古賀政男は多くの作品をリメイクしています。
私の知っているだけで
「黄河の月」ディック・ミネが「名月佐太郎節」高田浩吉
「櫛巻きくずし」美ち奴が「怒涛の男」美空ひばり、またこの曲はレコ大受賞曲の「柔」の土台として使われています。
「さらば青春」は同じ藤山一郎で同名の曲があります、こちらは加藤しのぶ作曲、佐伯孝夫作詞、昭和9年の発売です。
ついでに、歌手が同じで同名の曲をもう1つ
「南京の花売娘」岡 晴夫歌、この曲は作曲がどちらも上原げんとで出だしの「都南京」「みどりの光」で区別しています。
「都南京」は何故か当時は未発売です。岡 晴夫の曲で「男の涙」も同名の曲があります。こちらの出だしは「夜の裏町」「熱い涙は」です。

NHKのど自慢
「異国の丘」がNHKのど自慢から広まったと云うことは有名ですが、吉田 正がシベリア抑留中に作曲したこの曲は、復員した中村耕造によって NHKのど自慢で初めて歌われました。
戦後の少ない娯楽の中でNHKのど自慢は食にも歌謡曲にも飢えていた当時の人々にとっては唯一の娯楽でした。
NHKのど自慢出身の歌手を調べてみたら、第1回は昭和21年1月19日ここで合格したのは下門英二(しもかど)理髪店で働いていた青年でした 彼はNHK専属歌手となりNHKの地方局が開設されるたびにゲスト出演しちょっとしたスターになり「床屋の英ちゃん」として人気を得た。
その後鳴海日出夫、明石光司どちらも全国大会での優勝者です。
優勝かどうかわかりませんが荒井恵子も「南の花嫁さん」を歌ってNHKのど自慢で認められデビューしました。
若原一郎、上位入賞で認められ「船に灯がつきゃ」でデビュー。
鳴海日出夫の「涙のグラス」は、昭和29年の第5回コロムビア歌謡コンクール課題曲で、この大会での優勝者は島倉千代子で、彼女の「涙のグラス」も 貴重な音源としてCDの中に組み込まれています。また「涙のグラス」は昭和35年に島倉千代子で「他国の雨」としてリメイクされています。

ご当地ソング 乙女十九
乙女十九は昭和14年、奥野椰子夫作詞、仁木他喜雄作曲で二葉あき子が歌いました、最近のある日ラジオを 聴いていると、島倉千代子の歌唱で「ミス仙台」として紹介されていました。どこかで聴いた曲だと思ったけど 中々思い出せずにいたのが、やっと二葉の「乙女十九」だと気づきました。 「ミス仙台」は「乙女十九」に比べてかなりゆったりした曲になっています。 元々は二葉あき子で「ミス仙台」というご当地ソングで発売しましたが評判が良いので「乙女十九」と改題して発売したとのことです。 島倉千代子は仙台のご当地ソングをもう1曲歌ってます、それは「七夕おどり」丘十四夫作詞です。この曲も仙台の七夕まつりの時にはよくかかるそうです。
そうそう、こんなとこも耳にしました。
春日八郎の「瓢箪ブギ」はご当地ソングだったのですね、「赤いランプの終列車」がヒットする前に、 養老町の依頼で作られたご当地ソングですが、春日が売れ出すとついでにヒットしました。

母もの
戦後まもなく大映の「母ものシリーズ映画」として三益愛子主演で計31本が制作されました。
1950年代後半までシリーズが続いたそうです。
それにちなみ主題歌、挿入歌がたくさん製作されました。
昭和24年「母紅梅の唄」菊池章子        大映東京「母紅梅」 三益愛子 三條美紀 市川春代 岡譲二 潮万太郎
     「はぐれ小鳩」菅原都々子           「母紅梅」
昭和24年「母三人の唄」津村 謙        大映東京「母三人」 三益愛子 水戸光子 入江たか子 志村喬 根上淳
昭和24年「母恋星」  菅原都々子       大映京都「母恋星」 三益愛子 喜多川千鶴 夏川大二郎 高田稔
昭和24年「母燈台」  霧島 昇        大映東京「母燈台」 三益愛子 三條美紀 伊沢一郎 羽島敏子
昭和25年「母椿の唄」 三条町子        大映東京「母椿」  三益愛子 三條美紀 山村聡 花菱アチャコ
昭和26年「母月夜の唄」菅原都々子 真木不二夫 大映東京「母月夜」 三益愛子 沢村晶子 堀雄二 白鳥みづえ
     「黒いひとみ」白鳥みづえ           「母月夜」
昭和26年「母千鳥の唄」菅原都々子 真木不二夫 大映東京「母千鳥」 三益愛子 沢村晶子 白鳥みづえ 根上淳
     「小夜ちどり」小笠原美都子          「母千鳥」
昭和26年「母人形の唄」菅原都々子 真木不二夫 大映京都「母人形」 三益愛子 白鳥みづえ 日高澄子 河津清三郎
昭和27年「呼子星」  田端義夫        大映東京「呼子星」 三益愛子 三橋達也 松島トモ子 小林桂樹
昭和27年「母山彦」  菅原都々子       大映東京「母山彦」 三益愛子 長谷川裕見子 星美智子 白鳥みづえ
昭和27年「母子鶴の唄」久保幸江        大映東京「母子鶴」 三益愛子 若尾文子 馬淵晴子 久保幸江 白鳥みずえ
昭和28年「母の瞳」  菊池章子        大映東京「母の瞳」 三益愛子 松島トモ子 入江たか子 伏見和子
昭和29年「山の呼ぶ声母の声」真木不二夫    大映東京「四人の母」三益愛子 折原啓子 三宅邦子 南田洋子
昭和29年「母時鳥」  菅原都々子       大映東京「母時鳥」 三益愛子 南田洋子 蔵方しげる 北原義郎
昭和30年「母笛子笛」 菊池章子        大映東京「母笛子笛」三益愛子 品川隆二 白鳥みずえ 藤田佳子

で映画「母三人」はと言うと「生み」水戸光子、「育て」三益愛子、「義理」入江たか子なのです。
三益愛子は日本の母と云う代名詞がついていました。
同じ母ものですが主演が入江たか子で
昭和25年「青空天使」 美空ひばり       大泉映画「青空天使」入江たか子 美空ひばり 花菱アチャコ 横山エンタツ 川田晴久 伴淳三郎 清川虹子

森の水車
昭和17年、清水みのる作詞、米山正夫作曲 高峰秀子の歌で発売されました。しかしすぐ発売禁止になりました。
歌詞を見ても「なぜ」と首をかしげるように何も敵国語があるわけでなし問題ないように感じますが
「ファミレドシドレミファ」の部分がダメだったのです。当時ドレミファ音階は敵国語で
「ハニホヘト」で表現しなくてはならなかったのです。バカバカしいことですが事実です。
戦後、荒井恵子によって陽の目を見ました。
言論統制などはエスカレートするとなんでもかんでも禁止になり、統制語を新たに作る係りの人間は 次々と禁止言葉を作り出して悦に入っていたのでしょう。

現代でも似たようなものがあります、お気づきですか? そう差別用語です。
迂闊に喋れなくなりました、例の「過保護法」の弊害と同じです。体の一部が付く言葉はほとんど差別用語です。
「めくら判」「片手落ち」「びっこ」「ぎっちょ」「足元の悪い中」.....
「お手を拝借」もダメでしょう、どこかの歌詞にあったような気がするが...
「老人ホームを慰問」慰めると云う言葉は相手を下に見るのでダメ、「ふれあい訪問」だって、いい加減にしろ。
これらは何処かの担当者が次々と新しい差別用語を作り出して、「あなた方はそんな言葉を使ったらダメですよ」と 知らない人に対して優越感をもって悦に入っている、いるんですねこんな人間が
考えすぎでしょうか??

敵国語廃止
戦争が終わって敵国語が廃止されると待っていたように、やたらと「カタカナ」が曲名や歌詞の中に組み込まれるように なりました。
「ニュートウキョウソング」「ジープは走る」「愛のスイング」「長崎シャンソン」「東京スーベニア」「ロマンス航路」
「ロマンス航路」の歌詞では、なんか取って付けたように
青い鴎がブルーの海に サクラ富士山ジャパンの空に
わざと桜を「サクラ」としているところが滑稽です。
作詞家のみなさん、よっぽと嬉しかったのでしょうか.....軍部の野郎「ソレ見さらせ!!」

ちりめんビブラート
誰が言い出したか、まさにピッタリな表現ですね。
ビブラート歌手はと云うと
榎本美佐江、島倉千代子、菅原都々子、田端義夫でしょうか
中でも榎本美佐江は生まれつきと云うか、伸ばすところが自然にかかってしまう、「ちりめんビブラート」の表現が 一番ピッタリな歌手だと感じます。 また、聴いて見て「アリャ」と思ったのが女優の本間千代子、歌手が本職ではありませんが榎本美佐江なみに自然とビブラートしているようです。

お座敷調
正統派を自認する私ですが好きですよ意外と、この分野が。
二三吉、勝太郎、市丸、音丸、美ち奴、喜代三、豆千代、〆香、小梅、百太郎、きみ栄、照千代まだまだいます。
戦後では
はん子、浮子、久保幸江、照菊
この手の歌手は独特の歌唱法なんですね、頭のテッペンから声がするような。
現在は全く見当たりません、寂しいです。
今の歌手の「太い」声ばかり聴いていると、女性本来の優しさと云うか、そう云った母の懐に抱かれるような 感じがとても懐かしいです。
私の推薦する曲です。
「身代わり警備」「霧の四馬路」美ち奴
「雪の旅路」〆香
「博多ワルツ」「見ないで頂戴お月様」はん子
「博多ワルツ」は西條八十作詞、古賀政男作曲ですが曲といい詩といい芸者の悲しさ、寂しさの情感が良く出てすばらしい楽曲です。

芸名
五木ひろしが「横浜たそがれ」のヒットを飛ばす以前は中々ヒットしなくて松山まさる等いくつか芸名を変えたといいます。
その他近江俊郎も大蔵俊彦など10個の芸名があります。
なかには小林千代子のように黄色仮面(ゴールデンマスク)のような変わったのもあります。
多いのは、なんと楠木繁夫は55も芸名を変えたということです。ご本人自信全て憶えていたのかしら...
本名は黒田進といわれますが、黒田進での曲もあります。
古賀政男が昭和9年にテイチクに招聘された時、古賀政男自信が楠木繁夫の美声を買ってテイチクに呼んだということです。
楠木繁夫の最初の楽曲は昭和9年「国境を越えて」「男ごころ」古賀政男作曲です。
「男ごころ」は昭和10年「男のまごころ」と変えてヒットしました。
「国境を越えて」のほうも昭和11年「護れ国境」として発売されています。
作詞、作曲家も色々別名をもった人がたくさんいます。
服部良一は作詞の場合は「村雨まさお」のペンネームを使用しています。
作曲家の渡久地正信は歌手「貴島正一」で「花の雨」を平野愛子とデュエットでレコーディングしています。
春日八郎、三橋美智也の多くのヒット曲を手掛けた作曲家の鎌多俊与は歌手「近衛八郎」で昭和11年に「ああわが戦友」のヒット曲があります。

逢いに来ましたお父さん
昭和33年三宅広一の2作目の曲でかなりヒットしました。当時「アリャー子供が歌っている」とセンセーションを引き起こしました。
まあ、子供といったって美空ひばり、白鳥みづえ等、それまで子供歌手はいたのですが、男は珍しかったのです。
ほんとにボーイソプラノそのままです。内容は乳飲み子の時、父親が戦死して靖国神社に15年後に逢いに行く物語です。
この手の曲は戦前では「九段の母」塩まさる、戦後では「東京見物」三橋美智也、「東京だよおっ母さん」島倉千代子など よく使う題材です。 昭和31年、文化放送「夢のステージ」で全国優勝して、船村徹に見出され日本コロムビアより「鐘つき小僧」でデビューしました。 彼は昭和19年生まれです、私の兄と同年ですので兄がその気になってしまったことを良く憶えています。
大勢いたのでしょう、「俺も歌手になったる」
逢いに来ましたお父さんの後10曲あまり出しましたがヒットはしなかったようです、2年後には引退しました。
その後「船村徹音楽事務所」岡山支社の支社長として後進の指導を手がけ「香田 晋」などを排出しています。

アンサーソング
アンサーソングとは「先に発売した曲に対して後に返答のメッセージを送る曲」
戦前では「上海だより」上原敏に対して「銃後だより」青葉笙子
戦地からの便りに対して、本国銃後から返信の便りのかたちでアンサーしています。もっとも「アンサー」は敵国語なので当時なんと言っていたか...
戦後では「上海帰りのリル」津村謙に対して「私がリルよ」三条美紀 「霧の港のリル」久慈あさみ 「私は銀座リル」三条町子
「誰かリルを知らないか」と問いかけていますので、アンサーソングも作り易かったのかな.... 俗に言う「柳の下のどぜう」大抵先の歌(アンサーを受ける)は大ヒット曲です。 「上海帰りのリル」は一世を風靡しましたね、アンサーソングが3つも4つも出るのですから、すさまじいと云わざるを得ません。
子供の時、映画を見ましたよ、ほんの少しあるシーンが記憶に残っています。「夜の雨の中、乗用車の傍に女の人がいてこの曲が流れる。」 これ以外は全く消去です。 そう云えば津村謙は「リルを探してくれないか」が後にでましたが、これはアンサーソングとは別??「柳の下」でしょう。
「おーい中村君」若原一郎、これにはご本人が「アイヨ何だい三郎君」とアンサーソング。

替え歌
最近では氷川きよしの「きよしのズンドコ節」元唄は「MIDの部屋」に有ります、ご拝聴を...作者不明です。戦時中に流行りました。 ドリフも小林 旭も唄ってますね、それと田端義夫の「街の伊達男」この曲は元唄をかなりアレンジしています。
「ラバウル小唄」元唄は昭和15年「南洋航路」若杉雄三郎作詞、島口駒夫作曲、新田八郎 これも「MIDの部屋」に有ります。
「同期の桜」元唄は昭和13年「二輪の桜」西条八十作詞、大村能章作曲、樋口静雄  海軍兵学校の帖佐海軍大尉が替え歌を作詞して「同期の桜」となりました。 「二輪の桜」は「君と僕とは二輪の桜」が出だしです。
「軍隊小唄」元唄は昭和14年「ほんとにほんとに御苦労ね」野村俊夫作詞、倉若晴生作曲、山中みゆき

乗り物歌の作詞家
丘灯至夫は自分で「乗り物の歌ばっかり」と云っているくらいですから、沢山の乗り物を題材にした曲を作詞しています。
「高原列車は行く」「憧れの郵便馬車」「みどりの馬車」「自転車旅行」「登山電車で」「あこがれの航海」以上 岡本敦郎 「東京のバスガール」「東京のエレベーターガール」以上 C・ローズ
この他に童謡の乗り物歌も書いています。
この方は相当なお年になられましたが、まだお元気で時々ラジオの懐メロ番組にゲストで出ています。

長ーい下積み Vs デビュー曲ヒット
長い下積みからやっとヒットが出た、歌手本人にとっては天にも昇る気持ちだったでしょう、苦労した甲斐があった。 それに比べて幸運にもデビュー曲が大ヒット、運命のいたずらか、どちらが良かったかはさておき、 長い下積みのまま終わった歌手も相当な数居るでしょう。そのことを思えばヒットが出たのなら御の字です。
長い下積み
伊藤久男 デヒュー曲は昭和8年「今宵の雨」リーガル その後270曲だすが全然ヒットなし実に5年間 苦闘しました。 最初のヒットは昭和13年「湖上の尺八」といっても中ヒットくらい。昭和14年11月の「白蘭の歌」がやっとヒット して人気歌手の仲間入り。後「お島千太郎旅唄」「暁に祈る」「高原の旅愁」とヒットが続きます。戦後も「あざみの歌」「山のけむり」 「イヨマンテの夜」と第一線で活躍しました。
春日八郎 東洋音楽学校卒業後新宿のムーラン・ルージュで活動するも、なかなかヒットに恵まれず苦しい時代をすごす。 昭和24年キングレコードに入社。がヒットには恵まれず、一時田舎に帰って歌手を断念しようしたが思いなおして江口夜詩に頼み込んだ 昭和27年「赤いランプの終列車」が大ヒット、「別れの一本杉」「お富さん」と押しも押されもせぬ大歌手となる。
近江俊郎 昭和11年タイヘイレコードから鮫島敏弘の芸名で「辷ろよスキー」でレコードデビュー。ヒットらしいヒットは殆ど無く 昭和17年古賀政男に懇願して、門下生となる古賀政男からは二人の藤山一郎は要らないときびしいことを言われる デビューから10年目の昭和21年に「悲しき竹笛」が大ヒット。やっと日の目を見る。
デビュー曲ヒット
田端義夫「島の船唄」、霧島昇「赤城しぐれ」、岡 晴夫「国境の春」、藤山一郎「キャンプ小唄」、島倉千代子「この世の花」、 コロムビア・ローズ「娘十九はまだ純情よ」、神楽坂はん子「こんな私じゃなかったに」
竹山逸郎「泪の乾杯」ただし彼の最初の曲は「仙太利根唄」藤原亮子ですが映画「切られ仙太」が中止となり未発売となりました。

南国土佐を後にして
昭和34年ペギー葉山が歌ったこの曲(作詞作曲 武政英策)はペギー葉山の初めての歌謡曲と言う珍しさもあってか大変な大ヒットになりました。 それまでジャズ、シャンソン等を歌っていて本格的な歌謡曲はこの曲が最初です。 小林 旭主演で映画にもなりました。
その前昭和30年に鈴木三重子で発売されていますが、ヒットにはならなかったようです。
私はどちらかと言うと鈴木三重子の方が好きです。音源も所持しています。
元を云えば、戦時中の高知第40師団歩兵第236部隊(通称:鯨部隊)」の唄で「よさこいと兵隊」が元唄になります。

銭湯で歌って歌手に
小野 巡は銭湯で歌っているところを作曲家の細田義勝に認められて歌手になりました。 彼のヒット曲はほとんど戦争を題材にした曲です。 それが原因かどうか戦後はパッタリと歌手生活から足を洗いめったにお目見えできません。
立川談志などは唄って欲しいとしきりに云っていましたが.... 同様な曲が多い塩まさるは時々テレビに出ていましたがお亡くなりになりました。 小野 巡の曲はガチガチの軍歌ではなく、兵士の友情とか悲哀を題材にした叙情的な曲です。 中でも「手向けの喇叭 」「宛なき手紙」「血染の戦闘帽」「開かぬパラシュート」は聴いていてジーンと来るとても良い曲です。
どこかの国に過剰配慮して「受信料を取る放送局」は決してかけてはくれません。 20年前には民放では良く聴けたのですがこの頃は聴くことができません。 「なんとか連」の投書が怖いのでしょうか??「さわらぬ神に祟りなし」現代は全てがこの風潮です、まことに嘆かわしい。軍部による検閲の「逆の現象」がおきています。
戦争の歌はなんでもかんでも悪いと言う風潮には困りものです。我々懐メロファンとしてはこれらの情感のこもった曲は大事にしたいところです。

国民歌謡
検閲などの取締りが強化される一方、健全な歌の普及を目指し、昭和11年6月から日本放送協会により「国民歌謡」の放送が始まりました。 第一輯昭和11年〜第七十三輯昭和15年の資料は見ることができます。 戦後は「NHKラジオ歌謡」〜「みんなのうた」に引き継がれました。 国民歌謡は戦時中、時節柄、国家統制、国威発揚などの曲が総じて増え過去のいまわしい音楽として忌避され堂々と聴くことができません。 でも多くは『朝』『椰子の実』『春の唄』『めんこい小馬』など戦時色とは無縁な曲です。
私は第二十二輯の「娘田草船」福田正夫・大村能章の楽譜をネットで手に入れました。当時の価格5銭が1000円しました。 「護れわが空」(佐藤惣之助・内田元)とカップリングです。 上原 敏の音源と松島詩子の音源も所持しています。 早速MIDIを作りました、水郷の田舎の背景で最後に「娘十五の田草船ー」と歌われています。詩も曲も私好みです。

おしどり歌手
霧島 昇と松原 操が夫婦であることは懐メロファンなら誰でも知っていることです。 昭和13年の「旅の夜風」のデュエットが縁で昭和14年に結婚、大変仲の良い、おしどり夫婦として知られています。 どちらもコロムビアのドル箱で松原 操は「三百六十五夜」のデュエットを最後に惜しまれつつ引退し家庭の人となりました。 歌手デビューとしては松原 操の方が先輩で霧島 昇は昭和12年に「赤城しぐれ」でデビュー、幸運にもデビューがヒットしました。 松原 操は昭和8年「浮草の唄」でデビュー、同年の「十九の春」が大ヒットしました。 4歳年上の姉さん女房になります。
楠木繁夫と三原純子も歌手同士の結婚です。このお二人は晩年は不幸な生涯でした。楠木繁夫は大酒がたたり声が出なくなりました。
他に竹山逸郎と平野愛子もご夫婦です。テレビの懐メロ番組でデュエットしているのを見たことがあります。
私は知りませんでしたがネットで見つけました樋口静雄と三門順子が夫婦なんですね、樋口さん奥さん美人歌手でうらやましい。
一時夫婦であった、伊藤久男と赤坂百太郎、美ち奴と真木不二夫。別れたのだから「おしどり」ではない??

腹の為、金こしらえる
コロンビア文芸部の池田不二男が作曲活動に入った時のペンネームは人を喰ったような名前をつけました。
「原野為二」腹の為(喰うために)、「金子史郎」お金をこしらえる
以上3つのペンネームを使い分けています。
「原野為二」 では「幌馬車の唄」「片瀬波」「並木の雨」
「金子史郎」 では「想い出の丘」「河原の月」
「池田不二男」では「花言葉の唄」「雨に咲く花」
詳しくは全て「MIDIの部屋」にありますのでご拝聴。

野球好き
灰田勝彦は「歌手よりも野球選手になりたかった」と公言するほどの野球ファンです。
昭和26年にはその好きな野球を題材にした「野球小僧」のヒットを飛ばしました。同年「歌う野球小僧」として映画化され本人が主演しています。
当時の人気プロ野球選手も登場しています。別当、土井垣、若林。
この曲以外にも「輝けロビンス」(大陽ロビンス球団歌)を作曲して歌っています。
私は幼少の時は野球音痴だったので大陽ロビンスは知りません、松竹ロビンスは記憶にあるのですが....
「上原 敏」は専修大学野球部のエースで大学リーグに選手として出場しています。卒業後はノンプロ球団にも所属して活躍しています。
赤城の子守唄の作詞家「藤田まさと」は大連商業在学中、中等野球全国大会「甲子園」に出場しています。

歌う俳優
いまさら、このようなネタとお思いでしょうが、知らない人のために
古賀政男はテイチクに移ってから、映画を利用することによるヒット狙いを盛んに行いました。 いわゆる映画主題歌です。数々の映画主題歌のヒット曲を出しました。
以上は本職の歌手が歌ったのですが、本題では俳優が歌った曲を取り上げます。
山田五十鈴  「牡丹の曲」       東宝「上海の月」
田中絹代   「銀幕ぶし」「愛の紅椿」 松竹「愛染椿」
伏見信子   「初恋日記」       新興「初恋日記」
星 玲子   「ゆかりの唄」      日活「緑の地平線」
小林重四郎  「あやめの唄」      日活「国定忠治」
轟夕起子   「お使いは自転車に乗って」東宝「ハナ子さん」
大木 実   「船で暮せば」
岸 恵子   「花のいのちは」     松竹「君の名は」
佐田啓二   「君は遥かな」      松竹「君の名は」
久慈あさみ  「恋人」         日活「恋人」
宝田 明   「美貌の都」       東宝「美貌の都」
三船敏郎   「山の男の歌」      東宝「ならず者」
森繁久彌   「船頭小唄」       東京「雨情」
高峰秀子   「銀座カンカン娘」    新東宝「銀座カンカン娘」
伴 淳三郎  「歌う二等兵」      松竹「続二等兵物語」
小夜福子   「小雨の丘」
草笛光子   「忘却の花びら」     東宝「忘却の花びら」
山本富士子  「君を愛す」       大映「君を愛す」
香川京子   「暁の合唱」       大映「暁の合唱」
高千穂ひづる 「ろまん化粧」      松竹「ろまん化粧」
中田康子   「涙じゃないの」     東宝「ドジを踏むな」
中島そのみ  「二人歩けば」      としごろ
若原春江   「燃ゆる花びら」     新東宝「燃える上海」
山田真二   「哀愁の街に霧が降る」  東宝「哀愁の街に霧が降る」
久保菜穂子  「君ひとすじに」     新東宝「君ひとすじに」
八千草薫   「旅はそよ風」      宝塚「旅はそよ風」
勝 新太郎  「かんかん虫は唄う」   大映「かんかん虫は唄う」

以下は歌手兼俳優のような人達で(曲が多すぎる)上記とは別記しました。
高田浩吉   「伊豆の佐太郎」     新東宝「伊豆の佐太郎」
高峰三枝子  「懐かしのブルース」   松竹「懐かしのブルース」
李香蘭    「紅い睡蓮」       東宝「熱砂の誓い」
鶴田浩二   「弥太郎笠」       新東宝「弥太郎笠」

「天国に結ぶ恋」坂田山心中
昭和7年神奈川県の大磯にある坂田山で若い男女が心中しました。ところが女性の死体が消えてしまったのです。 翌日近くの山小屋で全裸の姿で発見されて、後に65歳の男が捕まります。猟奇的事件ですね。 これを東京日日新聞が純愛物語にしたて「天国に結ぶ恋」という見出しで報道しました。 さっそく松竹がそのままの題名で映画化しました。同時に主題歌も作られそれが、柳 水巴作詞/林 純平作曲 徳山 lが歌うところの「天国に結ぶ恋」です。 歌詞の内容が心中を誘発するような文句で、この年20件もの心中事件がありました。 江戸時代にも「曽根崎心中」など心中が流行り、幕府も「相対死禁止令」を出すなど、何時の時代にも心中はちょっとしたきっかけで流行ります。 現代もネット心中のような奇怪な流行があります。

浅草紅団(あさくさくれないだん)
私の所持している音源でこの「浅草紅団」吉川静夫作詞 清水保雄作曲 宇都美清/乙羽信子があります。
川端康成の小説の題名だと知って川端康成全集を図書館で借りて読んでみましたが、雪国とか伊豆の踊子は 筋がよく理解できたのだが浅草紅団はサッパリ理解できない作品で全部読むのにかなり苦痛でした。
浅草紅団は昭和四年の川端康成の作品です。 昭和五年に帝国キネマで映画化されています。
昭和27年に大映で再映画化され、主演は京マチ子(紅龍子)、乙羽信子(鮎川マキ)、根上淳(島吉) こちらはネットの粗筋を読むと良く理解できますが、原作とはかなり違う内容のように思います。
「観音さまの小鳩でも」で始まる歌詞は映画の筋を唄っているように感じます。
そもそも「浅草紅団」とはなんぞや、浅草公園にたむろする「不良集団」と言いますか得体のしれない団体です。
当時の乙羽信子は現代で云う「アイドル」で笑窪が可愛いくて、絶大な人気がありました。
テレビで若い乙羽信子の歌を集めた映画が放映されたので、早速録画して持ってます。なるほどアイドル顔です。
小川知子に少し似てるかな、たくさん歌っていますが、浅草紅団は有りません。
昭和27年というと私は小学校にも上がってない、まして当時の女優など知るよしもありません。

波乱万丈
戦時中の歌手は皆さん波乱に富んだ半生を送られたと思いますが、なんといっても歌手の中での波乱万丈は李香蘭が一番でしょう。 大正9年、奉天で日本人の娘「山口淑子」として生まれ、奉天の女学校在学中に中国人高級官吏の養女となり、中国名「李香蘭」(リー・シャンラン)と命名されました。 昭和13年には映画デビューし主題歌もヒットさせ大人気となりました。長谷川一夫と『白蘭の歌』『支那の夜』に共演し、戦後は池辺良と「暁の脱走」と活躍しました。
終戦時は中国から売国奴として処刑ぎりぎりの体験をされているのですから、ほんとに危機一髪で処刑を免れ日本に帰国できました。 戦後はハリウッド映画やブロードウェイ・ミュージカルでも活躍し、また後には参議院議員と波乱に富んだ人生です。
歌手はそれぞれプロですから誰が一番上手かと言われても甲乙つけがたいですが、私は彼女が一番かなと思っているのです。
声楽の基礎は13歳からイタリア人オペラ歌手マダム・ポドレソフに声楽を指導されました。
「私の鶯」を聴いてみると、なるほどオペラ歌手のような歌唱で「あー」と伸ばすところなどオペラ歌手そのものです。
戦後の「東京夜曲」のようなジャズ調の曲もうまく歌いこなしています。
現在、私が所持している音源では「月下の胡弓」「赤い睡蓮」「夜霧の馬車」が好みです。

キタレン
北廉太郎「キタレン」の愛称で懐メロ通の人には根強い人気があります。 しかし私はこの歌手については良くわからないのです。
北廉太郎からすぐに思いつくのは「荒城の月」の滝廉太郎、やはりと云うか本当に「滝」を逆にしたと云うことです。 大正9年鶴岡市生まれで本名は紀多惟次、昭和15年死亡となっていますから20歳での他界とまさに絶頂の時に白血病で亡くなっています。
タイヘイから紀多 寛と云う芸名で昭和11年「男の涙」でデビューしています。他に20曲あまりあります。
昭和11年というと16歳、となると十代歌手??
ポリドールデビューはおそらく昭和13年の「伊豆のふるさと」だと思います。同年に「進軍の一夜」を出しています。
「伊豆のふるさと」は翌年彼を売り出すキャンペーンとしてポリドールの新人コンクールの課題曲として使われています。
それに旋盤工をしながら歌を勉強していた田端義夫が出場し、認められてプロ歌手になるキッカケとなる曲で、田端義夫にとれば 思い出深い曲でしょう。たしか田端義夫のLPにも入っていたと思います。また、田端義夫はキタレンのヒット曲「出船の唄」を 「別れ桟橋」としてレコーディングしています。
戦後、小川耕平が2代目北廉太郎として「沓掛時次郎」をだしてます。
北廉太郎の最大のヒットは「潮来夜船」でしょうか、お年寄りで「雨は止んだに晴れたのに」のメロディは聴いたことがあるが誰の唄か知らなくて ラジオで紹介され始めて知ったと言うことを良く耳にします。
北廉太郎では生涯30曲あまりレコード発売があります。せめて後10年長生きしていれば、もっと後世に名を残していたでしょう。 あまりにも短い生涯で残念です。
独特の哀愁をおびた声で、私も挑戦しているのですが、あの声はどうしても出せません。
私は他に「港は雨」「夢のふるさと」が好きです。「港は雨」は哀愁と云う点ではピカイチの曲です。

楷書で歌う
藤山一郎の歌は言葉が良く聞き取れることから楷書の歌とも言われています、実際私も「さらば青春」を音源から聞き取りしましたが 「惜しめど過ぎ行く春の日の」と全く無難に書き取れました。
淡谷のり子の「鈴蘭物語」も試みましたが途中でどうしてもわからなくなり断念しました。彼女は東北生まれなので訛りが取れなかった??
他に楷書で歌うのは「岡本敦郎」「三浦洸一」でしょうか
よく爺さん婆さんが「今の歌は何を喋っているのかさっぱりわからん」と耳にしますが、「あちら」の歌はともかく「日本の歌」は言葉を はっきりしたほうが宜しいのではと常々思うのですが、どこかのグループの(??)が「英語的日本語」で歌い始めるとみんな右に倣えでそれまで普通に歌って いた歌手兼テレタレ某も同じように歌っているのを見て笑ってしまいました。
以前テレビで「森山良子」が親から「言葉だけははっきり」と歌いなさいと忠告されそれを守って歌っていると云っていましたが 中には彼女のような現代歌手もいるのだなと救われた気持ちがしました。
この頃はヒットチャートを見てもほとんどの題名が英語です、でもって歌詞もチャンポン、どうせなら全部英語にして歌えってんだ!!

間奏に童謡が
懐メロの中には間奏に童謡または別の曲が挟み込まれている曲がいくつか有ります。どれも不思議と曲にマッチして違和感なく効果をあげているように思います。
一度聴いたら不思議と耳に残るので作曲者もそのあたりを意識して作っているのではないかな。
「暁の塹壕」    上原 敏   「子守唄(ねんねんころりよ)」
「忠治子守唄」   東海林太郎  「子守唄(ねんねんころりよ)」
「麦と兵隊」    東海林太郎  「佐渡おけさ」
「母いずこ」    東海林太郎  「谷間の灯火」
「嘆きのピエロ」  藤山一郎   「勇敢なる水兵」
「愛染草紙」    霧島 昇   「旅の夜風」
「シベリアエレジー」伊藤久男   「誰か故郷を想わざる」
「母人形の唄」   菅原/真木  「子守唄(ねんねんころりよ)」
「ダリアの雨」   若原春江   「碧空」
「涙の小鳩」    岡 晴夫   「啼くな小鳩よ」
「港のエトランゼ」 岡 晴夫   「蛍の光」
「旅の燈台」    春日八郎   「旅愁」
「あれから十年たったかな」春日八郎「家路」
別の曲が挟み込まれている曲といえばこの曲が圧巻でしょう。
「のばせばのびる」楠木繁夫 前奏と間奏に「二人は若い」「ああそれなのに」が使われています。
両方とも古賀政男の曲なので盗作にはならない。
で、私もオリジナル「岡晴賛歌」に「故郷の廃家」を入れてみました。

最初に憶えた曲
私事ではなはだ恐縮ですが、このブログは私のメモ帳も兼ねていますので、お許し願いたい。
私が最初に憶えた曲は「高原の駅よさようなら」昭和26年発売の小畑実の歌です。4歳か5歳でしょう。
後で大人になって笑種にされましたが曲にはなってなかったようです。
「高原の駅よさようなら」は小畑の最大のヒット曲ですので、後続として「ああ高原を馬車が行く」「霧降る高原の駅で」「霧の夜汽車」と同系統の曲が発売されています。
「ああ高原を馬車が行く」の方は全音歌謡曲大全集に載っているくらいなので少しはヒットしたのだと思います。
「霧降る高原の駅で」はMIDIは作りましたが残念ながら音源を持っていません。
この年の他のヒット曲はというと
ミネソタのタマゴ売り   暁テル子
東京シューシャインボーイ 暁テル子
私は街の子        美空ひばり
あの丘越えて       美空ひばり
トンコ節         久保幸江・加藤雅夫
アルプスの牧場      灰田勝彦
野球小僧         灰田勝彦
連絡船の歌        菅原都々子
上海帰りのリル      津村謙
あざみの歌        伊藤久男

懐メロ??
このブログは懐メロよもやま話とは関係ありませんが懐メロファンとっては大変困ったことになっているので 特別に書かせてもらいます。
今まで懐メロと云えば当然「昭和30年代以前」の懐メロのことと、気にもとめずにいましたが、さにあらず
と云うのはネット検索していると、なんとグループサウンズのC−C−Bが「超懐メロ」ですって
C−C−Bってナンダと云う人に、昭和55年頃のロックバンドで「ロマンティックが止まらない」を歌っていました。
無理もありません平成元年生まれがもう18歳ですもの、私の18歳は昭和40年この時分昭和30年の曲は 懐メロでした。と云うことは平成8年の曲は懐メロ。○○懐メロ会に入会したら平成の懐メロだったりして 困ったことになります。 どなたか我々の懐メロの呼称を考えてください。
「超々懐メロ」はダメですよ、前のデン行くと「千昌夫」あたりになってしまいます。
落語のデンで行くと「古典懐メロ」??なんかおかしい。「SP盤懐メロ」?
昭和32年を境に「昭和前期懐メロ」これかな!! 「昭和後期懐メロ」「平成懐メロ」

なつかしの蕃社
「なつかしの蕃社」 西条八十/古賀政男 霧島昇・菊池章子 昭和18年 映画「サヨンの鐘」李香蘭主演の主題歌です。
「サヨンの鐘」西条八十/古賀政男 昭和16年 渡辺はま子で曲のほうが先にヒットしそのヒットに便乗し映画「サヨンの鐘」が作られました。
李香蘭も主題歌として「サヨンの唄」を吹き込んでいます。
ところで「蕃社」とはなんぞや、気になりつゝも今日まで調べずにいましたが、改めて調べてみました。
場所は台湾で高地族の「村」と解釈するのが一番わかりやすい。
「サヨンの鐘」の内容はタイヤル族の少女サヨンが日本人教師の出征見送りの途中、川に落ちて落命しました、これが美談化され、「愛国乙女サヨン遭難」となり 曲が作られ映画が作られた。
「なつかしの蕃社」は古賀政男の曲の中でも異色な旋律で中近東の音楽に近い旋律を用いています。 菊池章子の若々しい歌声が印象的です。聞きかじりですが霧島昇とのデュエット「相呼ぶ歌」の当時十五歳だったとか..

親子で歌手
瀬川伸の娘が瀬川暎子ということは広く知れ渡っているようです。娘の声は全く親に似ていませんね、まあ男と女だから違うのはあたりまえとしても あの粘っこい声は後天的なものでしょうか。瀬川伸はくせのない歌唱で「上州鴉」「港神戸のマドロスさん」のヒットがあります。
瀬川伸は戦後の歌手かと思いきや、さにあらず戦前の歌手で「街の姫百合」(ミスコロ)14年、「胡桃の木蔭」15年が出ています。
「祇園小唄」の藤本二三吉の娘は藤本二三代です、こちらは親はお座敷調で娘は正統派歌手なので、これもまた声が違っていました。二三代の声は 美声に近い声で美人でしたからブロマイドの売れ行きもトップクラスで「好きな人」「夢見る乙女」とヒット曲にも恵まれ一時代を築いた歌手でした。
次は確たる自信はありませんが、ちらと耳にしたはなしでは戦前の「ほんとにほんとにご苦労ね」の山中みゆきの娘が同じ山中みゆきで昭和36年の レコ大新人賞だった、大したヒット曲はなかったがぽっちゃりとした可愛い美人であったと記憶しています、橋幸夫とデュエットしていたな。

家出奨励で発売禁止
戦前なら軍国日本に好ましくないと言う理由でたくさんの曲が発売禁止になりましたが 戦後10年も経って発売禁止になろうとは....
「東京へ行こうよ」大久保正弘/平川浪竜 真木不二夫 昭和29年
神武景気で豊かになった日本この頃、都会に憧れて家出をする少年少女が多く こうした家出奨励のような歌は好ましくないという理由で発売禁止となりました。
その後、発売禁止になった曲、その理由は歌詞に「差別」「卑猥」「過激」などが含まれる場合が主でした。
「卑猥」ブンガチャ節(北島三郎)
「差別」ヨイトマケの歌(三輪明宏)

歌の造船会社
田端義夫には「船モノ」と云う一連のヒット曲がありますが、清水みのる、倉若晴生のトリオでの曲が大半です。
世間ではこのトリオを「歌の造船会社」と云っていたそうです。うまいこと言いますね。
全部で18曲ありますが、全てが「船モノ」ではありません。
14 島の舟唄
14 偲ぶ山唄
15 別れ船
16 キャンプの一夜
17 南海の小島
21 かえり船
23 とまり船
24 かよい船
24 東京の花束
25 たより船
26 ひとよ船
26 涙の別れ船
26 ひとり船頭
27 ぎおん船
28 みれん船
30 おちょろ船
30 こがれ船
31 むかえ船
東京の花束以外はMIDIを作成しています。

三浦君のこと by 吉田 正
昭和26年10月のある日、三浦君が紺の学生服に長靴を履いて傘をもって来訪した時 「この青年には流行歌は唄えないだろう」と思った、それで声を聞いて益々その感を深くし 「君は流行歌には向かない」と言ったら、どうしてもやりたいから勉強させてくれと言うのでした。
なかなか芯の通った真面目な好青年。それから週2回、雨の日も風の日もかかさ ず通って来ました。
27年6月に初吹き込みで大変良い出来ばえでしたが、会社の評判が芳しくなく お蔵のまま丸一年経過し28年5月にデビュー盤として発売されました。
これがのど自慢でよく唄われ低音歌手「三浦洸一」の存在を明らかにした「さすらいの恋唄」です。
9月には「落葉しぐれ」がヒットし、春日八郎、青木光一と共に三羽烏といわれ るようになりました。

君の声もいけるじゃないか 三橋美智也
昭和29年夏、友人である民謡歌手のために吹き込みの三味線を弾いた青年が、その友人に対して ここはこのようにと歌唱指導しているのを見ていたディレクターが「君の声もいけるじゃないか」と言われて 専属となり「酒の苦さよ」でレコードデビューとなりました。三橋美智也の誕生である。
この曲は不発であったが「おんな船頭唄」で大ブレーク、立て続けに「君は海鳥渡り鳥」「リンゴ村から」「哀愁列車」「母恋吹雪」 出す曲出す曲が全てヒットとすさまじい売れ行きであった。

春日八郎 by 江口夜詩
彼のデビュー曲は私が作曲した「赤いランプの終列車」であったが、キングレコードはこの曲を序列では 10枚の一番最後としていた位であまり高く取ってはいなかった。
ところが出してみると1と月足らずの間にこれがトップにのし上がってしまって、周囲のものを唖然とさせたのであった。 この1枚によって春日八郎の未来が決定づけられたと云っても過言ではないと思う。
それからの春日八郎は年間2,3曲のヒットを矢継ぎ早に飛ばし続けて歌謡界の王座に君臨したのであった。
彼があまりにも短期間に爆発的な人気が出たため、地方の委託レコードの作曲を彼の歌唱で依頼された時に 前年の出演料を例に出されて困ったこともあった。
「瓢箪ブギ」は私の郷里養老町の依頼によって作ったものであるが委託レコードが全国的にヒットすると言うような ことも余り例がないのではないかと思う。
デビュー前の下積みが非常に長くデビューするまでに実に10年間の苦闘時代があった。
黙々として10年間文字通り食うものも食わずにひたすら努力を続けると云うことは凡人には容易にできない ことであるが、それを成し遂げたところに最大の原因があるのではないかと思う。

流しの三人組
昭和13年9月、東京も北の端の押上から、音羽山のキング吹込所まで、折からの残暑に汗だくになりながら テクテク歩いてきた三人組の若い演歌師があった。
なかの一人が作った「旅役者の唄」を唄ってテストを受け、即座に採用となったが、これが岡 晴夫の誕生で、 その時ギターを弾いて伴奏した、その唄の作曲者も認められた。これか上原げんとである。
かくて翌14年には上原、岡コンビによる「上海の花売娘」「港シャンソン」「広東の花売娘」などのヒット 連発となりキングの黄金時代を築いた。
上原、岡コンビは戦後になってますます華やかに活躍し「東京の花売娘」をはじめ幾多の名曲を発表した。
「オカッパル」の愛称はいよいよ天下に鳴り渡った、岡 晴夫の絶頂期到来である。

キングレコード戦前史
キングレコードは昭和5年、講談社の初代社長の野間清冶氏の音楽文化にたいする深い関心によって発足した。
講談社の雑誌によって一般募集し19万2060編の中から「天皇賛仰」「明るい日本」他数編を採用した。
ただ民衆はこれらの高尚な詩になじめずキングが払った犠牲は甚だ大きかった。
昭和8年の春頃から新進竹岡信幸の「椿咲く島」「城ヶ島夜曲」をはじめとする情味豊かな曲により キングの名声がしだいに高まり昭和9年「山は夕焼け」東海林太郎が大ヒットし続けて、折からの「満州事変」に テーマを取った「ああ我が戦友」近衛八郎がヒットこの曲は九州からギターを抱えて上京した細川潤一の力作である。 彼は昭和12年にタンゴの名曲「マロニエの木陰」松島詩子を出した。
キング創業時の顔ぶれは作詞に「時雨音羽」「西条八十」「サトーハチロー」「高橋掬太郎」作曲に「江口夜詩」 「田村しげる」「大村能章」「竹岡信幸」歌手に「松平晃」「淡谷のり子」「新橋喜代三」等々 中には30年の長きをキングで歌い続けた「林伊佐緒」彼が「新橋みどり」と歌った「もしも月給が上ったら」は 昭和12年7月で、この頃「三門順子」「井口小夜子」がその美貌でキングの名花2輪と謳われた。
昭和13年8月に「樋口静雄」が「チンライ節」11月には鉄道員から歌手になった「塩まさる」が低音で 「母子船頭唄」をヒットさせた。
14年には上記の「岡 晴夫」がデビューする。

明大マンドリンクラブと古賀政男
古賀政男は苦学しながら明治大学に通いました、在学中にマンドリンクラブを組織して、その発表会には当時の大歌手、 佐藤千夜子を招聘、これが機縁となって昭和6年1月、佐藤千夜子によってビクターから、彼が昭和2年頃作曲した「影を慕いて」が発売されましたが 当時は中山晋平の「晋平ぶし」が歌謡会を席捲していて、この曲は不発に終わりました。
4月にはコロムビア専属作曲家となり昭和7年2月、上野音楽学校の生徒であった藤山一郎により世に認められました。
昭和4年に明治大学を卒業しますが、マンドリンクラブの学生達と小田急沿線の稲田堤へハイキングにでかけ、その夜 楽しかった昼間の情景が脳裏に浮かび、次から次へとメロディが浮かび出来上がったのが「丘を越えて」です。 この曲は昭和6年11月に藤山一郎によりコロムビアから発売されました。 明朗軽快な曲が世に迎えられたのは云うまでもありません。
昭和6年10月には「酒は涙か溜息か」が藤山一郎で発売されました、藤山一郎はまだ上野音楽学校の生徒であったため 「はやり歌」を歌ったことが学校にバレて、あわや退学と云う一幕もありました。この曲の流行に目をつけた帝国キネマが 川浪良太郎監督、高津慶子主演で映画化されました。レコードと映画のつながりはこの歌から始まりました。
古賀政男は昭和9年にテイチクに迎えられ、フリーの歌手として下積みを続けていた「楠木繁夫」を「白い椿の唄」により 世に出しました。またジャズを歌っていたディックミネを小節が出来ないと渋るのを口説いて流行歌に転向させ「恋とはこんなものかしら」を出しました。
後にコロムビアに戻り戦後も数々のヒット曲を世に送り出したのは周知のとおりです。

埋もれた曲の発掘ブーム
たしか田端義夫が「島育ち」をヒットさせた頃だと思います。この曲は「三界 稔」の作曲ですが何故か各社競作になりました。 田端本人が見つけて来て、こんな良い曲が埋もれていたのか、これならきっとヒットすると確信し、おかげで長いこと埋もれていたご本人が 奇跡的に近い形で復活したと言う曰く付きの曲です。 田端の他に中曽根美樹なども歌っていたと思いますが、これが発端となったかどうか知れませんが、レコード会社こぞって戦前の 埋もれた曲の発掘にやっきとなりました、「アリューシャン小唄」もこうして発掘された曲です、久美悦子とこまどり姉妹の競作になりました。 私のもっている音源で鳴海日出夫の「サルウィンの別れ」と云う曲がありますが、解説を読むとどうやら同じく発掘された曲のようです。

懐メロをド演歌で歌わないでください
またまた、よもやま話とは関係ない記事です。
NHK様、どうかド演歌歌手に懐メロを歌わさないでください。イメージがまるつぶれになります。
40年代に三島敏夫が「人妻椿」を発売しましたが、松平晃の曲のイメージがまるつぶれで「なんだコリャー」とイカッタのはもう随分昔になりました。
それにまして、現代のド演歌女性歌手の声の太いこと、男性歌手のねちっこいこと、昔の歌手が美声で品良く歌った曲がガラリとイメージを変えられ頻繁に歌われて聴くに耐えません。
それなら見なきゃ良いではないかとおっしゃる?? でも気になるのです。
レコード会社さん、どうしてミスコロのような美声歌手を出してもらえないのですか??

懐メロはオリジナル原盤で聴いてこそ
ラジオで収集したい懐メロが放送されると期待して録音スタンバイ。これが再吹き込みのステレオ版でガッカリ。
こんな思いは皆さん体験済みだと思います。
NHKもどうしてこんな意地悪をするのでしょうね、オリジナル版はあるのにですよ、番組編成担当者が懐メロに興味ないか若い為なのでしょう。
ほんとうに最近の放送は腹立たしいことバッカリ、頻繁に間違えるし後で訂正もしない。事前に調査してるのかどうか疑わしい。 勝太郎の「伊豆の七島」を「イズノヒチトウ」と紹介して、歌詞の中にちゃんと「イズノナナシマ」とあるのにですよ、ちょっと流行歌に興味があれば 「イズノヒチトウ」なんて重箱読みはしないですよね。
20年前の場合、懐メロ解説者が一緒について放送していたので、色々勉強になりましたが、そういった懐メロに詳しい解説者は亡くなってしまったし 先がおもいやられます。もう少し懐メロファンに気を配った配慮を願いたいものです。
オリジナル原盤は少し針音がしても価値があります。最近ではノイズ除去技術が進んでわりと綺麗な音です。
田端義夫の「島の船唄」若い声ですねー19歳ですか。彼の声は昭和20年代も独特な哀愁があって良かった、しかし田端はミノルフォンに移った時、 歌唱法で遠藤実とケンケンガクガクの論争をして抵抗むなしく現代演歌調の歌唱法に変わってしまいました。変える必要なかったのに..時代には逆らえなかった??
二葉あき子の「あの夢この夢」とても可愛らしい声です。彼女は戦後「夜のプラットホーム」あたりから声が出なくなり低音に切り替えました。ご本人は 相当悩んで自殺まで考えたそうですが、お気の毒でした。
菊地章子の「相呼ぶ歌」の声も大変綺麗です。「星の流れに」に比べると随分違います。「なつかしの蕃社」あたりまでは美声です。
渡辺はま子も「長崎のお蝶さん」と「ああモンテンルパの夜は更けて」を比べると年齢を感じます。
東海林太郎、上原敏はできたらもっと速くデビューして20代の声を残してくれたらと思うと残念な気持ちです。
ミスコロのように若い声の時にサッパリと止めてしまった方が人々にはイメージとして良い記憶が残る気もしますが..
やはり、オリジナル原盤でないと絶対ダメ!!
このところ愚痴っぽい話ばかりになったな、しかし

終戦時の流行歌
平成18年8月15日、また今年も終戦記念日がまいりました。
昭和18年の今頃は戦争真っ盛りあちこちで激戦がおこなわれ多くの命が失われていたことでしょう。
世間では小泉総理の靖国参拝の是非が取りざたされていますが、 賛否どちらにも言い分があるようです、ただ外国による内政干渉に右往左往するようでは国家としての体面が保てません。 願うのは、あの悲惨な戦争は2度と起こしてはならないことです。
昭和20年8月15日、日本の無条件降伏により戦争は終結しました。 国民は戦争から解放されたものの、食料をはじめあらゆる物資欠乏の混乱が続いた 常に飢えに直面した厳しい生活をしいられた。
現在の飽食の時代では信じられないほど人々は苦しい時代を生き抜いて来ました。
こんな時代にも流行歌は人々の心を慰めるよう次々と生まれました。 「りんごの歌」で明るい気持ちにさせ、「かえり船」で帰還者の同情をさそい、 また「悲しき竹笛」の悲しいメロディは次のような替え歌にされました。
「ひとり豪舎の黄昏に思い悲しく芋を食う あヽ細く儚き配給なれど飢えて死ぬのを君知るや」
家を焼かれて豪舎くらしの人も多かった、「愛の灯影」はそのような大衆の悲哀を端的に 「住むに家なき小鳩のわたし雨に泣いてる焼野原」とうたっている。
米国でもそうですが、混乱期にはブルースが流行ります。「○○のブルース」も沢山ヒットしましたが 群を抜いてヒットしたのが「湯の町エレジー」です。40万枚を売り戦後最大のヒットとなりました。
つくづく思うのですが、現在の満ち足りた飽食の現代人に一度、終戦時の苦労を経験させたらと 食い物は余れば捨て放題、若者はコスプレとか暴走族とか目立つことばかり考えて苦労知らず。

やくざ小唄 道中もの
以前から「赤城の子守唄」昭和9年、「旅笠道中」昭和10年(いずれも東海林太郎)と幾つかは出ていたのですが
昭和12年には俄然活気を呈し翌13年にかけて多くのやくざ小唄が作られました。
昭和12年「妻恋道中」「流転」「赤城しぐれ」「人生劇場」
昭和13年「いろは仁義」「鴛鴦道中」「赤城月夜」「忠治子守唄」「旅姿三人男」
以後、戦後にかけても股旅もので一つのパターンとして作られてゆきます。
一時すたっていましたが近年、氷川きよしが復活させたのも耳新しいことです。

潮来もの
ご当地ソングはその地域の宣伝のため作られますが、めったにヒットしません。
前記の春日八郎の「瓢箪ブギ」はまれな例です。
ただ流行歌では不思議とある決まった地域の歌は続々作られ良くヒットしました。
「長崎」「東京」「佐渡」「伊豆」などです。「玄海」 「江ノ島」もいれとくか
「潮来」を題材にした曲ももてはやされこれを「潮来もの」と呼びました。
古くは「船頭小唄」佐藤千夜子 「潮来夜船」北廉太郎 「霞む水郷」伊藤久男 「船頭可愛いや」音丸 「娘田草船」上原敏 「大利根月夜」田端義夫 「母子船頭歌」塩まさる 「利根の舟唄」松平 晃
戦後は「利根の小舟」鶴田六郎 「潮来月夜唄」宇都美清 「流れの船唄」竹山逸郎 「おんな船頭唄」三橋美智也 「娘船頭さん」美空ひばり  「さすらいの船唄」鶴田浩二 「枯れ葦小唄」三船浩
新しい所で「潮来花嫁さん」花村菊枝 「潮来笠」橋幸夫
潮来と云う響きの良さと船頭さん、利根川など歌詞としての題材が豊富なため、このように多くの曲が作られたのでしょうか。
歌詞には「出島」「浮島」という言葉が出てきますが中州などの島かとおもいきや地名なのですね。

サーカスの唄
昭和8年、東京に万国博覧会が開催され、招かれてドイツからハーゲンベックサーカスが やって来ました。その宣伝のために依頼を受けて作曲したのが「サーカスの唄」です。
西条八条、古賀政男のコンビの最初の曲です。この時古賀はコロムビア、西条はビクター専属で あったが、ビクターに席を置いたままコロムビアと1年契約を結んで西条八条、古賀政男のコンビが できあがったのでした。
青春の哀愁を取り入れた悲しいメロディは若者の心をとらえ、興行の人気とともに広く愛唱されました。 作詞が先にできあがったのですが、古賀はこの詩を受け取った時、感動で涙が止まらなかったと云うことです。
歌った松平晃は前年ポリドールから「忘られぬ花」江口夜詩作曲のヒットで一躍人気歌手となりました。
古賀は「忘られぬ花」の旋律を聴いてこれは強敵が現れたと感じたそうです、江口夜詩との因縁はその後ずっと続きます。
「旅の燕 さびしじゃないか」NHKのアナは松平が間違って「つばくら」と吹き込んでだと解説していますが 「燕」は「つばくらめ」という往古の言い方がありますので西条がそちらを取ったのが正しいようです。
サーカスを題材にした曲は
「来る来るサーカス」淡谷のり子
「青春サーカス」  東海林太郎
「サーカス哀歌」  塩まさる
「嘆きのピエロ」  藤山一郎
「悲しきジンタ」  徳山 l
「嘆きのピエロ」  田端義夫
「花のサーカス」  田端義夫
「青空サーカス」  田端義夫
「人生サーカス」  真木不二夫
「ピエロ悲しや」  真木不二夫
「サーカス人生」  春日八郎
「悲しき小鳩」   美空ひばり
「旅のサーカス」  美空ひばり
「陽気な渡り鳥」  美空ひばり
「母紅梅の唄」   菊池章子
「旅の踊り子」   三條町子

リバイバルブーム
昭和34年にリバイバルブームが起こりました。私が懐メロにのめり込むキッカケとなった年です。
火付けは「人生劇場」村田英雄 元歌は昭和13年の楠木繁夫で古賀政男のテイチク最後の作曲です。
楠木繁夫の「人生劇場」は目だったヒットではなかったそうです。
浪曲出身の村田英雄がその浪曲地声でガラリとイメージを変えてヒットしました。
続いて続々とリバイバルされました。
「君恋し」   フランク永井
「泪の乾杯」  フランク永井
「侍ニッポン」 村田英雄
「波止場気質」 藤島桓夫
「流転」    赤木圭一郎
「妻恋道中」  若原一郎
「旅笠道中」  宍戸錠
「無情の夢」  佐川ミツオ
「ゴンドラの唄」佐川ミツオ
「熱海ブルース」佐川ミツオ
「小雨の丘」  井上ひろし
「東京ワルツ」 井上ひろし
「雨に咲く花」 井上ひろし
「別れの磯千鳥」井上ひろし
「片瀬波」   鳴海日出夫

元歌の歌手はどうだったでしょうか、正直、嫌だったと思うのですが、上原敏は亡くなっていたので文句は出なかったでしょうが 他の歌手は全て存命中だったと思います。
私はオリジナル趣向ですので、リバイバル版は嫌いです。
編曲者はどうしても自分のカラーを出したがり変にアレンジしがちです。
無情の夢などは「ドドンパ」ですよ、でもうまく合ってるのは不思議です。
雨に咲く花、君恋しなどはむしろ後の方がイイナーと思うことすらあります。

死語になる?
戦後60年、過去はどんどん遠のいてまいります。
戦時歌謡の歌詞も忘れられ、中で使われた言葉も死語になりつつあります。
「背嚢」「銃後」「糧食」「軍功」これら戦前の人達には日常的に使用されていた言葉は、関係のない現代人には なんのことやらさっぱりわからん。
「背嚢枕に 露営の夢は」  男ひとたび(牧喜代治、上原敏)
「わたしゃ銃後の 花嫁御寮」愛馬花嫁(西條八十、ミスコロ)
「糧食輸送の友軍機」    涯なき泥濘(徳土良介、小野巡)
「あゝ軍功の傷痍章」    仰げ軍功(得丸一郎、霧島昇)
「背嚢」「糧食」は自衛隊では使われているかもしれません、「銃後」「軍功」にいたっては死語でしょう。
こうして戦前は完全に遠い過去となり、一部の懐メロファンによってのみ歌われる言葉となります。
ついでに、これは河の名前「アリナレ」鴨緑江 「スンガリ」松花江 
「雪の鴨緑江国境の空に」  身代り警備(石松 秋二、美ち奴)
「流れ流れて松花江超えて」 国境の春(若杉雄三郎、由利あけみ)

B面ヒット
A面がヒットして、ついでにB面もヒットと云う曲はたくさんありますが
A面はヒットせず「えーこれがB面?」というようなヒット曲があります。

満州娘(服部富子)         昭和13年のA面は 長江船唄(櫻井健二)
皇国の母(音丸)          昭和13年のA面は 湖上の尺八(伊藤久男)
アンコ可愛や(岡晴夫)       昭和24年のA面は マドロスの唄(岡晴夫)
熊祭りの夜(伊藤久男)       昭和24年のA面は 恋の乙女(二葉あき子)
初恋ワルツ(野村雪子)       昭和29年のA面は わたし年頃よ(野村雪子)
おんな船頭唄(三橋美智也)     昭和30年のA面は 逢初ブルース(照菊)
哀愁列車(三橋美智也)       昭和31年のA面は ふるさとはいいなあ(中川姿子)
十九の浮草(松山恵子)       昭和31年のA面は 若い船頭だよ(藤島桓夫)
どうせひろった恋だもの(Cローズ) 昭和31年のA面は 銀座の小鳩(青木光一)
東京のバスガール(Cローズ)    昭和32年のA面は 港に灯がつけば(宝田明)
だから言ったじゃないの(松山恵子) 昭和33年のA面は さよなら鴎(藤島桓夫)
南国土佐を後にして(ペギー葉山)  昭和33年のA面は ドクトルジバンヌ(ペギー葉山)
人生劇場(村田英雄)        昭和34年のA面は つばくろ一座(村田英雄)

上記のA面はレコードを買った人以外はほとんど知られておりません。 これって運でかたずけるには悲しいことですね。
私自信も「湖上の尺八」しか知りません「若い船頭だよ」は音源は知らないが楽譜があるのでMIDIは作っています。
世の中は色々あるもので「B面の会」なるものがあるそうで、得てして虐げられた運命の曲を労わる どこか人間世界に共通することがらです。
何万曲という音源が人に知られることなく眠っているのでしょう。


未発表曲
前回B面について書きましたが今回はそれより悲しい未発表曲です。
三橋美智也未発表曲というCDが有ります、全18曲、未発表だから三橋が売れなくなった37年以降かと 思いきや全てモノラルなので35年以前だと思います。 作曲者も江口、渡久地、山口、吉田矢等々怱々たるメンバーです。 そして三橋も声が若くまさしく全盛期の声です。中には全盛期に出せば必ずヒットするような佳曲もあります。
CDで発売されているということは盤はあるのですから どのような経緯で発売がボツになったのか知るよしもありませんが、運とはいえ曲にとってみれば 悲しい運命です。
「あヽ恋無情」「酔いどれギター」「吉野懐古」
18曲全てJASRACに著作権委託されています。これらの曲は後にCDで出たものの、全く日の目を見ない曲も 著作権委託されてるのでしょうねキット、委託料金だけ取られて印税は全く無し、JASRAC丸儲け、作曲者さんなんかへんだと思いませんか?? と云ってももうほとんど亡くなっているのだよね
「NIROのページ」に岡晴夫の未発表曲が載っていますが、こちらもたくさん未発表曲があります。
三橋しかり岡晴しかり有名な大歌手にしてこれだけ多くの未発表曲があるのですから 田端、東海林、霧島なども相当な数の未発表曲があるのでしょう。
盤はSPコレクターにとってみればすごく貴重なものですね、しかし1枚しかないのでまず無理か


演歌に侵された懐メロ歌手
またまた、例によって一くさりです。
松山恵子の「鳴門千鳥」原盤と再吹き込み両方あります。
原盤には有りませんが、再吹き込みの方では「私ゆえ」のところで「唸り」があります。おそらく「都はるみ」がデビューした後のレコーディングだと思いますが こんなところにも時代の影響がでてしまうのでしょうか。ただ松山恵子は現代演歌調のつなぎのような存在だった歌手と思います。
もう一人藤島桓夫、この歌手もデビュー当時の曲と「さよなら港」「月の法善寺横町」と比べると演歌っぽくなっています。
あと、歌唱変化が気になる歌手として、大津美子、菊地章子かな
同時期の三浦洸一は今も全く変わっていません、デビュー当時から一貫して同じ歌唱を続けています、青木光一も変わってないか
老年期の田端義夫は極端にかわってしまいました。「大利根月夜」の原盤と老年期の再吹き込みと比べると歴然と変化が見れます。まるっきり「ド演歌調」 ミノルフォンに移籍した時、彼はかなり抵抗したみたいですが時代の流れに逆らえなかったのでしょうか、懐メロファンにとって見れば大変寂しいことです。


菅原都々子さん引退
歌手生活70年と言いますからずいぶん長い歌手生活でした、昭和12年古賀久子の名(古賀政男の養女として)で「お父さんの歌時計」でテイチクよりデビュー。 この歌は映画主題歌で私も聴いていますが、声は童謡歌手ですね、昭和15年には養子縁組解除で父親(作曲家陸奥明)の元にかえります。 なんでも、古賀の猫っ可愛がりが原因でとか。
戦後、東洋音楽学校を卒業(と言っても本人の談では戦争のため碌に授業はできなかった) 昭和21年菅原都々子で「かえり船」田端義夫の片面「片割れ月」を 父親の陸奥明作曲で再デビューします、ビブラートきかした「おんな田端」として存在感を示しました。(良い曲ですよ)
昭和26年「憧れは馬車に乗って」「江の島悲歌」「連絡船の唄」のヒットの後昭和30年には「月がとっても青いから」が大ヒット。
常に自分に厳しくありたいで、引退を決意したのも自分の歌唱に衰えを感じたからだとか。
特筆すべきはテイチク一筋で移籍なしとは歌手には珍しいことです。
彼女のMIDIは14曲作っています、父親陸奥明の「悲恋椿」も好きな曲です。
ああ、私の好きな懐メロ歌手はどんどんいなくなって行く。
新・全国なつメロ愛好会会報より一部抜粋。


黎明期の流行歌
レコード国産第1号は明治24年とネットで見つけました(蝋管レコード)、SPレコードは明治42年だそうです。
日本ではじめてレコードの吹込みをした人物は幕末のちょん髷の生き残りの福地桜痴(福地源一郎)だったそうです。但し歌ではなく「しゃべり」だった。 福地源一郎については幕末に活躍した有名な人物なのでウィキペディアでご覧なると良いでしょう。
佐藤千夜子が昭和3年「波浮の港」によって日本の国産レコード歌手第1号 とありますがこれには異論があるようです。
松井須磨子が大正2年「カチューシャの唄」2万枚以上を売り上げるという記事がありこちらのほうが古い。
しかし、松井須磨子の「カチューシャの唄」は聴いてみても完成度が低い所詮女優の歌で、声楽の基礎がある佐藤千夜子を第1号することも納得がいきます。
前置きはこのくらいで黎明期の流行歌は私の感じでは歌手も会社も「手さぐり状態」であり、後の流行歌として確立していない状態だと思います。 黎明期の歌手は「内海一郎」「二村定一」「藤原義江」「奥田良三」「徳山 l」「四家文子」「羽衣歌子」「曽我直子」「佐藤千夜子」「和田春子」と言ったところでしょうか。 クラッシック畑で育った人達でそのまま延長で歌っているようで後の流行歌のような歌唱とは違います。 全般に歌に情感、抑揚がない、ただペローンとした感じで歌っているだけで、歌詞などもエログロありとかで、昭和7年古賀政男の登場で「影を慕いて」が やっと流行歌らしくなったと思うのです。
ある歌手がクラッシックから流行歌に転向する時、流行歌の歌唱はどのようにすれば良いのか先輩などからアドバイスを受けたと聞いています。
昭和8年に入ると歌詞、曲ともに哀愁、悲哀といった情感のある曲が出てきます。そして歌手も情感を入れて歌うようになります。
いよいよ本当の流行歌が以後盛んに作られるようになります。
私は黎明期の流行歌は好きではありません、私の持論の正統派ではないからです。
20代の懐メロファンはなぜか黎明期の流行歌が好きなようです、古ければ古いほど良いと思っているのか、二村や徳山の曲を見つけて来てはわいわい言って 喜んでいる。けして全員がそうではありませんが。


千人針
現代の若者には「千人針ってなんのこっちゃ」となりますが、そのことは他のページで懇切に説明されているので省いて、 この曲の数奇な運命について聞きかじりましたのでここに書きます。
昭和12年、国民歌謡としてラジオから流れ人々に歌われたのですが、作者達の専属会社の違いからレコード化が見送られました。
      作詞      作曲
千人針   サトーハチロー 乗松昭博  サンマルテ合唱団  昭和12年 8月
街の千人針 佐伯孝夫    乗松昭博  江戸川蘭子     昭和12年12月 ビクター
千人針   サトーハチロー 長津義司  関 種子      昭和13年 1月 ポリドール
千人針   サトーハチロー 乗松昭博  井口小夜子     昭和36年 7月 キング

上記のような系譜になります。国民歌謡の千人針は全く聴いていないのでわかりません。街の千人針は同じ曲に佐伯孝夫が詩を付けてレコード化されました、井口の曲に比べて 行進曲のようにアップテンポの曲になっています。
長津義司は乗松昭博の曲をアレンジしたとしか思えないほどメロディが似ています。小林亜星ではないけれど訴えられそう....
長津義司は既に数々のヒットを飛ばし売れっ子作曲家なのに、なぜこのように似せてしまったのか疑問です。
もう一つの疑問は24年も経って吹き込みしたかです、私は20年くらい前に井口の千人針をラジオで聴きそれ以前に関の千人針も聴いて いましたので、作者も知らず気にも留めず当時の「競作かな」とくらいしか思っていませんでした。昭和36年とはどうしても思えません。 声がとても若い、彼女は戦後の「紅孔雀の歌」も若い声なので声を酷使しなかった分長持ちしたか知れませんが、昭和36年と言うとSPは終わり EPの時代のはずなのにSPのような感じがします。 井口が昭和36年頃まで吹き込みしたかどうか、これも色々の人の主張がありわかりません、キングにはその形跡がないと言う人もいます。

この記事は塚越亨さんの「ピンぼけなつめろ考(9)」を参考にしました。
やっぱり戦前を体験された方は違いますね、我々戦後生まれは当時を見ていないので、大ヒット曲以外はどの歌がどれだけヒットしたのかわかりません、ただ歌本に 載っているので知られた曲なのだろうと理解しているにすぎません。うかつなことは怖くて書けません、だから「聞きかじり」と卑怯にも逃げています。
「隠し部屋」にしばらく井口小夜子の千人針を置いておきます。

追伸
井口版の経緯が判明しました。情報提供ありがとうございます。
津村謙の年譜に36年1月にLKF1115とLKF1116の二枚があり軍歌中心のオムニバス盤になっています。LKF1116の中に井口版の千人針が収められています。 ということでキングが軍歌オムニバスLP盤を編集する時に吹き込みしたのが真相のようです。


気になる曲
よく歌がヒットすると2番煎じ、柳の下のどぜうで似たような歌がつくられますが、この場合あまり間を置かずに発売されます。
有名なのが「湯の町エレジー」に対して「湯の町物語」「湯の町夜曲」「湯の町月夜」
「啼くな小鳩よ」に対して「涙の小鳩」「旅行く小鳩」「心の小鳩」と言ったところでしょうか
ここに同じようなことで、戦前と戦後に別れて作られた気になる曲がありますので紹介します。
1つは昭和15年の  「ビルの窓から」真木一葉、佐々木俊一、一色皓一郎
これに対して昭24年の「ビルの窓から」野村俊夫、原 六朗、岡本敦郎
もう1つ昭12年の  「涙の三人旅」 西條八十、江口夜詩、音丸、霧島昇、二葉あき子
これに対して昭27年の「流れの三人旅」松坂直美、八洲秀章、青木光一、山田陽子、若山 彰
全く異なるメンバーですが、メロディが前作を意識して作られたように良く似た作品です。
山田陽子は鳥取春陽の娘だそうです


憧れのハワイ航路
ある日、岡晴夫が江口夜詩の自宅を訪問した時、ピアノの上にポンと楽譜が置かれているのを手にとって見ると ビッビッと来て、「先生これをぜひ私に歌わせてください」と無理やり頼みこみ吹き込みすることが出来ました。 出すとまたたく間に大ヒット、やはり岡晴はすばらしい嗅覚を持っていたのでしょうか。
わりを喰ったのが小畑実で、実はこの曲は江口夜詩が彼のために書いたものだったのです。
岡晴には戦前のヒット「港シャンソン」に関連した「波止場シャンソン」という曲が用意されていたのですが 結局、小畑が「波止場シャンソン」を歌うことになりました、この曲もそこそこヒットしたのですが「憧れのハワイ航路」に 比べると空前の大ヒットというわけにはなりません。
岡晴はこのヒットで飛ぶ鳥を落とす勢いの全盛を向かえました。
小畑もこの後「高原の駅よさようなら」などのヒットで岡晴を凌ぐ人気を獲得し明星の人気投票第1位をしばらく続ける ようになりました。
また、後の昭和27年には江口夜詩が岡晴のために書いた「赤いランプの終列車」が春日八郎に廻されて長年啼かず飛ばずだった彼を 一躍、人気歌手にしました。岡晴には「赤いランプの貨物船」という曲があり、岡晴のために書いたのは、なるほどですネ。
人生浮き沈み、また歌手の世界も浮き沈み、時代は繰り返されます。


何故だ70代
私、最近新しい発見をしました。発見といってもそうたいした事ではないのですが、 80歳代の人は懐メロに明るいですが、70歳代の人は意外と懐メロを知りません、 それで70歳代の人は大抵、演歌に走っています。何故って思ってしまいます。
好きな歌手は?と聞くと「サブちゃん」などと答えます。
60歳代の人が演歌なら納得できるのですが...
70歳代と言うと昭和12年以降、20年代は10代の青年、流行歌に興味無かったのかしら? 良い流行歌がたくさん有り全盛時代なのに...
もちろん70歳代の懐メロファンもいると思いますが、我々懐メロファンから見ると不思議でなりません。
病院で同室の70歳代に当たってみましたが懐メロの大ヒット曲は知っていますが中ヒットはほとんど知りません。
「緑の地平線」は知っていても「楠木繁夫」は知りません、「ハイキングの唄」は知りません。
ただ共通して知っていたのが「上海だより」子供の時良く聴いたということです、但し誰が歌ったのかは知りませんでした。
戦後でも「三條町子」を知っている人はいません。



日輪兵舎
日輪兵舎という耳慣れない名前の曲があります。
花方登喜雄作詞 大村能章作曲 井口小夜子唄 昭和16年
日輪兵舎とはどういったものか調べてみました、太平洋戦争末期に食糧増産活動のために国民学校、青年学校を 卒業したばかりの14、15歳の少年で編成された、「農兵隊」の活動拠点としてモンゴルのゲルに似た形状の建物が全国各地に建てられた。
太陽をかたどり、熱意と力と円満な和の精神を表しているとされています。
日輪兵舎は、戦後間もなく解体されたため建設位置などが分かっていなかったが、鳴門市で写真が発見されたようです。
19年に15歳では現在78歳あたり、当時農兵隊に参加された青年は憶えているでしょうか。
井口の日輪兵舎はヒットしたのでしょうか、「昭和歌謡曲大全集」に楽譜がありMIDIは作りましたが、聴いたことがないのでテンポなど わからず、そのままにしていましたがネットでさわりの部分が視聴でき修正しました。


夫婦でレコード会社移籍
歌手同士の夫婦は何組かありますが、霧島昇/松原操のように生涯コロムビア一社で通したカップルもいれば、夫婦してレコード会社を転々と渡り歩いたカップルもいます。
これから紹介する竹山逸郎/平野愛子のカップルはビクター時代に結婚しますが、竹山逸郎のヒット曲を多く作曲した東辰三に死なれてからヒットに恵まれず昭和26年にテイチクに 夫婦して移籍します。ここでは夫婦デュエットの「愛染橋」のヒットが生まれます。
昭和29年にキングへ移籍し昭和30年にはマーキュリーに移籍しています、この間常に夫婦一緒でした。
「愛染橋」の後「熱い涙を流そうよ」くらいでこれといったヒットには恵まれていません。
もう一組、楠木繁夫/三原純子のカップルもコロムビアから楠木の古巣テイチクに移籍した時夫婦一緒でした。 このカップルは悲運な晩年でお気の毒なことでした、楠木繁夫は酒でノドをやられて、昭和28年「湯の香恋しや」を最後にレコーディングから遠ざかり、 悪いことは重なるもので三原純子の結核が悪化して 郷里の高山で療養と離れ離れとなり、昭和31年の暮れ楠木繁夫は悲観して自殺してしまいます、52歳という早すぎる生涯でした、三原純子は訃報を療養先で聞きますが自分自身も重病で どうにもならない状態でした。彼女も後を追うように昭和34年に38歳という若さで世を去っています。


ドサまわり
この前田舎に帰った時おかんが云うには、昭和25、6年頃、村の映画館に「美空ひばり」がドサまわりで来たと云うのです。
私はまさかと云ったのですが、おそらくひばりもどきではないかと思うのです。
あれだけ有名になればもどきが出現しても不思議ではありません。
こども歌手をメインにして何人かの歌手で地方を旅していたのだと思います。
当時は国民全てが喰うに困っていた時代ですから、いろんなことをしておまんまにありついていた時代です。
そして「竹山逸郎」「平野愛子」も来たと云うのですが、いくらボケていても歌の好きなおかんですから これは見間違いは無いと信じました。
私の小学6年当時、村の映画館に無名歌手のドサまわり楽団が良く来ていました。そろそろ色気が付きかけで肩の露出したドレスの歌手を 見て興奮していました、当時はまだまだエロに対して厳しい時代でした、今では信じられない可愛いもんです。
その映画館も中学卒業する頃には潰れてしまいました。探検にいった時、映写室にSP盤が山と散らかっていました。
今となっては少しは持って帰っていたらと残念におもいます。
映画館からスピーカーで「雨降る街角」等が流れていて遠く離れた私の家あたりまで聞こえていました。
当時を思い出すと懐かしく思うこの頃です。遠い遠い昔になってしまいました。


多芸歌手三門順子さんのこと 細川潤一
私が初めて三門順子さんに逢ったのは昭和十年の春、青山のポリドール吹込み所である。
当時私は駆け出しの作曲家でその年の八月新譜の「新納涼音頭」の宣伝を名古屋で行うことになり、伴奏を私がやることになり彼女の母も一緒に 旅をした、母堂は大変芸道に通じた人でいかに彼女を厳しく育てたかを聞かされた。(「三門順子の略歴は本ページの歌手紹介を参照」)
当時は満州事変の関係で軍国調の機運が出てきた頃であるが私の曲で初めて三門さんのレコードが出たのはその軍国調の「異郷の空に」である。
当時私は音羽町で自炊をしていたが母娘がレッスンに来る度におかずを持って来てくれました。母堂は早く嫁を貰えと自ら奔放し千葉に良い娘がいるのを 見つけて仲人までしてくれたのが現在の私の妻である。
三門さんの芸域は大変広く、長唄、清元、常磐津、小唄、俗曲、俚謡、民謡、詩吟、さらに日舞をよくし作曲家にとっては貴重な歌手であった。 私は彼女の詩吟が好きで南条歌美の詩で作曲したのが「忠義ざくら」「暁の決死隊」「筑紫の名月」であり歌と共に彼女の詩吟がいかに重要な役を果たしているかは 聴いていただけはお判りの通りである。この曲に彼女が自ら振り付けして舞台で舞う姿は当時大勢のファンを魅了したものである。
昭和十四年ごろから戦争は益々激しくなり軍歌ばかりで彼女の情緒ある歌も聴けなくなった。
そして終戦となりこれから本当の自分の歌が歌えると張り切っていた、ファンの多くは円熟味を増した彼女に期待していたが昭和29年4月 純潔の白椿が音も無く静かに寂光の大地に落ちるがごとくこの世を去った本当に惜しい人であった。

「忠義ざくら」
桜ほろ散る院庄....
院庄は現津山市の西、後醍醐帝が隠岐に流罪になる時、児島高徳は救出するためはるばる来たが、警備の厳しさに叶わず、桜の幹を削って 臥薪嘗胆の故事「天勾践を空しゅうする莫れ時范蠡無きにしも非ず」の一文を残した。
その地にこの故事にちなんで貞京5(1688)年高徳顕彰碑、明治2(1869)年に作楽神社が建立された。


「島育ち」のこと
「島育ち」は田端義夫が長い間低迷していた当時「こんな良い曲が埋もれていたのか」と見つけて来て昭和37年に吹き込みし奇跡のカムバック果たしたことは ご周知のことです。
この曲は「三界稔」の作曲です、彼は戦前ポリドールから「上海だより」「北満だより」戦後コロムビアから「元気でねさようなら」等、多くの ヒット曲を作っています。南国の鹿児島出身で南国のご当地ソングもたくさん作曲しています。「南国情話」「奄美小唄」等々
「島育ち」がヒットした時あまり気にしなかったのですがこの曲は以前に発売したがヒットせず埋もれていたのか、あるいは未発売で田端が 初めて吹き込んだのか....
もう一つの疑問はこの曲が各社競作となったこと、この当時三界稔はコロムビアにいたと思うのですが専属ではなかったのかしら??
どしてテイチクから発売できたのか

「戦後流行歌一覧」を作成中気にがつきました。
昭和24年にポリドールから波平暁男で発売されていたのですね、つまりヒットせず埋もれたということですね。
私は波平暁男の音源は聴いたことがありません、はたして音盤が残っているのか、あれば好事家の間では貴重な盤でしょう。
この記事でもっと詳しいことが判る人がおられたらメールでお知らせ,願えれば幸いです。


「馬」
「馬」佐藤惣之助/古賀政男 伊藤久男、菊池章子 昭和16年
「国のお召しで行く朝は..   ともに暮らせば心も通う..」この曲を聴くと涙が出てきます。
いったい何頭の軍馬があの戦争に駆り出されたのでしょう、他にも軍犬もいます。 なにも知らず住み慣れた飼い主の元を離れ、別れ別れにならなくてはならない、きっと馬も涙したことでしょう。 私は馬は飼っていませんが愛犬がいます、いくら国のお召しだといっても手放す気にはとてもなれません。 馬は利巧ですから新しい飼い主にすぐ慣れたでしょう、しかし銃弾飛び交う激戦地で次々と倒れてゆく運命にあろうとは...悲しい運命です。 思うに戦地から何頭の馬が帰還出来たのでしょう、人間優先で現地においてけぼりになってしまったのでしょうか、もし帰還できたら 飼い主にとって、その時はどんな思いだったでしょう、胸が詰まるおもいです。 戦争は悲惨だと皆言いますが「軍馬や軍犬」のとこを思いはせる人はいるのでしょうか、あまりにも身勝手だと思います。
この度は人間ではなく、動物から見た戦争の悲惨を思いなおして見ました。


「ため息から生まれた 暁に祈る」
この歌は陸軍省から軍馬のための歌として依頼され野村俊夫と古関裕而により作られました。
作詞の野村俊夫は詩が中々まとまらず「あーあ」とため息をついたのを脇で聞いた古関裕而が 「ソレソレ それを頭に書きなさいよ」と
助け舟をだして「あーああの顔で」の出だしの詩がようやく完成しました。
でも軍馬のための歌となっているかしら....


古賀政男テイチク移籍第1回作品
昭和9年5月にテイチクに入社した古賀政男の記念すべき初仕事として4曲発表されました。
「国境を越えて」楠木繁夫
「男ごころ」  楠木繁夫
「宵の濡れ髪」 幾代
「昿野に咲く花」幾代
移籍第1回作品ということでテイチクでは固唾をのんで売れ行きを注目したが全曲とも芳しくなかった。
古賀政男としてはよほどくやしかったのか全曲とも題名を変えてあるいは歌手を変えて再発売しています。
幾代なる歌手ですが実は松島詩子が歌っているのですが、ややこしい事情があります。
ほんとは芸者の幾代に歌わせるつもりでしたがレッスンしてみるとあまり上手くない、そこで急遽、松島詩子に バトンタッチして吹き込みしたが、既に資料は幾代で印刷済みであったため公式には幾代になってしまった、 曲の発表会に出席した松島詩子は別の名前であったため、くやしくて一晩泣き明かしたということです。
再発売に関しては下記の通り
「護れ国境」   楠木繁夫
「男のまごころ」 楠木繁夫
「浪の漁火」   美ち奴
「昿野に咲く花」 美ち奴



不死鳥
産経新聞の記事「日本の残像」によると昭和22年4月28日午前9時30分、高知県大杉駅に向かっていた満員のバスが 対向のトラックと接触し横転した、あやうく20米下の川底に転落するところだった。
死者1人重傷者2人、重傷者の1人は美空和枝(9)でした、ガラスの破片で 左手首動脈を切っており瞳孔が開き死んだと思われムシロがかけられるところだったという。
この地に八坂神社があり日本一の大杉がそびえている、ケガが回復した和枝はこの大杉に両手を合わせ「神様が生命を救ってくれた」と日本一の歌手になることを誓った。 境内をおりると記念碑があり、プレートには5年後お参りした時撮ったひばりの写真が埋め込まれ「川の流れのように」の歌詞が刻まれている。
奇跡的に回復し実家の横浜に帰り芸名を美空ひばりに変えた。
前出の記事で田舎のおかんの「ひばりのドサ周り」のことを書いていますが、まさかと思っていたのですがあるいは本当だったのかも....
この事故で思い出すのが小生の父(故人)が慰安旅行中、相生市付近の国道で土砂降りのため待機していたバスがガケ崩れに遭いガケ下の田んぼに落下して 死者3人を出した大事故でした、それこそ付近の家の戸板で病院に搬送されたそうです。


開かぬパラシュート
この曲は戦時歌謡の1つかと思っていましたが、実際は少し違うようです。
昭和11年11月21日場所は東京洲崎飛行場、新作のパラシュート実験が外国メディアも注目の中敢行されました。
注目の実験のため撮影もされていました、高度30mという超低空からの実験で肥後清二氏(18歳)により行われましたが 残念なことに失敗に終わりました。
彼は歌詞(〜十八歳の美少年〜)の通り眉の太い中々の美少年ですが不運にも18歳という若さで世を去りました。
そして翌12年、「開かぬパラシュート」は高田保作詞、橋本成美作曲、小野 巡唄でビクターより発売されました。
スローテンポの情緒のある曲に仕上がっています、小生もMIDIを公開しています。
歌詞では弟がいたようですが存命なら相当の高齢でしょう。
情報提供 感謝!


忘れちゃいやよ
最初検閲した内務省はまさかこんな緊迫した時勢に流行りはすまいとと許可しましたが 官能的な歌い方が話題となりヒットしてしまいました、後を狙って「私のあなたよ」「思い出してちょうだいよ」 「かわいがってね」等々次々と発売され、たまりかねた内務省は「あたかも娼婦の媚態を見るがごとき...」と 一刀両断すべて発売禁止あいなりました。


社会歌謡のはしり 湖底の故郷
小河内村住民がムシロ旗をたてて陳情もむなしく昭和13年に小河内ダムの建設が始まりました。 600世帯3000人が離村をよぎなくされました、石川達三の「日蔭の村」のモデルです。 ダム建設は戦争のため一時中断されたが戦後昭和32年に完成し小河内村は湖底に沈みました。 作詞の島田馨也は「新聞記事で湖底に沈む小河内村を知り住み慣れた故郷を捨てる人々に思いを馳せて一夜暗然としながらこの詩をまとめた」と 云っている。東海林太郎の歌で静かに流行し昭和41年には歌の碑が建てられました。


湯島の白梅で有名になった天神様
本郷の湯島天神は菅原道真をお祭りした神社で江戸時代からの名所ですが、 あらためて有名にしたのは昭和17年にヒットした「婦系図の歌」(湯島の白梅)におうところが大でしょう。 原作は明治40年の「婦系図」泉鏡花で芝居でお馴染みでした。 小畑実は駆け出しの新人で19歳、この当時の新人はベテランと組んで吹き込みが多くお相手は藤原亮子 ふたりはマイクをはさんで向かい合って吹き込みでしたが小畑は緊張でNGの続出、気づいた佐伯孝夫が 「相手がみえるからだろうと」見えないよう横に並ばせてようやく吹き込み完了。
この曲は昭和17年10月吹き込みで正題が「婦系図の歌」で副題が「湯島の白梅」でした、副題の方が浸透して、 戦後昭和22年10月に藤原亮子と末松和男でリバイバルされていますが、この時は「湯島の白梅」で発売されています、A面は 「勘太郎月夜唄」こちらは藤原亮子と竹山逸郎が歌っています。
残念ながらこちらの音源は聴いたことがありません。


りんごの歌
並木路子は3男2女の末っ子、父と兄は徴兵され前線へ、東京大空襲で母を失い、悲しみをこらえて大陸慰問団に加わって 終戦で帰国してみると父も兄も不帰の人、とても明るい歌など歌える状況ではなかったが悲しみをすこしも顔に出さず 明るく爽やかに歌って万城目正を感激させた、作詞のサトーハチローは「リンゴは軍国日本の日の丸を現したもの」と 一部から攻撃され弱っていた。ともかくこの歌は大流行暗い世間に1点の灯をともしました。 当時課長の給料が200円そこそこリンゴのヤミ値が1個5円「りんご高いや高いやリンゴ」と替え歌でも歌われた。


この曲も古関裕而
NHKラジオ「昼の憩い」のテーマ曲
番組の内容は日本各地の農村だよりのような「○○県の○○さん方ではそろそろ○○の取り入れが...」といった感じでテーマ曲 にのり始まります。 子供の時から聴いていたような感じがしますが、私は田舎育ちですので家のラジオからよく流れていました、 野良仕事から帰るとこの曲が流れ、飯にしようかということになります。 メロディもほんのりとした旋律で心が安らぐ思いがしたものです。 この曲は古関裕而が作曲しました。 他には 「東京オリンピックマーチ」
高校野球の「栄冠は君に輝く」
早稲田の応援歌「紺碧の空」
慶応の「我ぞ覇者」
阪神タイガース「六甲おろし」
読売ジャイアンツ「闘魂こめて」
NHKスポーツ中継「NHKスポーツテーマ」
等々元クラッシック作曲家としての片鱗がうかがわれます。
最後に経歴を
明治42年福島市の呉服店に生まれる子供の頃から大変音楽好きで福島商業時代は作曲に夢中だった 卒業後銀行に就職するが20歳の時作曲した舞踏組曲がロンドンのコンクール優勝、山田耕作に認められ 上京するクラッシック作曲家として活動するも実家が破綻し生活の為に流行歌に手を染める。


NHKのど自慢から生まれた異国の丘
娯楽の少ない終戦直後NHK素人のど自慢は大変な人気、合格の鐘歌ったのは中村耕造アナウンサーのインタビューに 聞き耳をたてていたのは自宅で寝転んでたまたま聴いていた佐伯孝夫、翌日ビクターに持ち込みレコード化することに 竹山逸郎と中村耕造のデュオでとりあえず作曲者不詳で発売されました、NHKは作曲者は名乗り出てほしいと放送すると 50人もの人が名乗り出ました、結局満州から帰還した角田勘吾という人が手帳に書きとめた楽譜と名前が決めてとなり まず作詞は増田幸冶とわかったが作曲者が吉田正とわかるまではしばらく日数がかかった、吉田正伍長は故郷茨城へ帰り 2年間の抑留で疲れ果て自分の歌が流行しているなんて考えもしなかった、知人の米山正夫に促されNHKに出向いた のは大分後のことでした。
吉田正はシベリヤ抑留の帰還兵ですが、米山正夫も同じくシベリヤ抑留の経験者です、米山正夫は満州奉天中央放送局時代に アマチュアとして曲を書いていた吉田正の存在を知っていたようです。


岸壁の母秘話
東京大森の端野いせさんは息子の帰還を信じて復員船が入る度に舞鶴に出向いて、もしやもしやと我が子の帰還を待ちわびて いました。昭和20年の第1回からずっと。昭和27年の春のある朝ラジオニュースでこの母の話を聞いた藤田まさとは 感動して書き上げたのが「岸壁の母」作曲は若干20歳の平川波竜、歌の菊池章子は稽古の時から泣きっぱなし、でステージ でも涙が止まらない。菊池章子はレコードを持って端野いせさんを訪問したが蓄音機がない寄付したいと言うと息子が帰ってから 買うからとかたくなに辞退した、後々ずっと息子の帰還を待ち続けました。


星の流れに
この歌は奉天から引き揚げてきた1看護婦からの投書により生まれました。 還ってみると両親も身よりもなく上野の地下道に何も食べずに2日寝た、3日目知らない男から握り飯を貰い それから「夜の女」に転落していった.... 清水みのるは徹夜で詩をしあげ、利根一郎は地下道や公園を見て廻ってメロディをつけたという。 唄は某有名歌手を予定していたが当の本人は「パンパンの唄など」と蹴って、菊池章子は喜んで交代したという。


青葉笙子さん上原敏の訃報を知る
青葉笙子さんは終戦後疎開先の仙台から東京の自宅に帰って来ました、母屋は空襲で焼け土蔵がかろうじて残っていて其処で生活を 始めました、煮炊きは庭に急拵えの竈でしていました、ある日炊きつけにしようとしていた古新聞の記事が何となく目に止まり 戦死者「松本力治」とあったのを見て驚嘆しました、虫の知らせと言うか普通なら何も見ないでそのまま燃やしてしまうところでした。 兄のように慕っていた敏さんの魂がそのようにさせたのでしょうか。その後、敏さんの奥さんと供に戦死した南方の島を訪問して遺骨を 捜したが見つからず終いです、青葉笙子さんの話では本当の死因は餓死だとか。


現役警察官と二束の草鞋
筑波高は海軍軍人を父に舞鶴市に生まれました、子供の頃は浪曲が好きで母に浪曲師になりたいといったらひどく叱られました。 成人後は市役所の書記になり近くの警察官に柔道を習っていたらその警察官にいわれて警察官になりました。
神戸の警察官(特高)の時に、のど自慢に出て優勝しました、特高の勤務は海外にも出かけるのである日、船中で一緒になった当時有名な三浦環と話し をする機会に恵まれのど自慢に出て優勝したことを話したら「それなら私が古賀先生に紹介状を書いてあげる」と云ってその場で書いて貰いました、神戸に帰って 友人の新聞記者に話したら、その記事が大きく新聞に載り、それを見た数社のレコード会社から勧誘が来ました、現役の警察官でもあるし近くの会社が便利なので タイヘイで吹き込みすることになり飯田三郎に師事し「男と生まれて」でデビューしました、ただ現役の警察官でもあるため名前は伏せなくてはならずレコードの 写真は飯田三郎で本人の名前は隠されていました。筑波高という名前はお世話になった会社の筑波氏から貰い特高の高をつけて筑波高としたと云うことです。 二束の草鞋状態は昭和14年にキングから誘われるまで続きました、上司から将来の保険の意味で年金の条件を満たすまでは警察官を続けたほうが良いとの 忠告で本職の歌手にはならず二束の草鞋を通して来ましたがやっとその年になりキングの誘いにあい、 どうせなら大きな会社でという野望からキングに移り「日の丸馬車」でデビューしました、戦争が激しくなり38歳の時に召集され戦後は 岡山県の児島に引っ込み2度と芸能界には顔をみせることは有りませんでした。
この記事はNHKラジオの昭和歌謡大全集の往年の歌手シリーズで昭和58年9月に放送する予定で加賀美幸子アナが児島の筑波高の自宅に赴いてインタビューした 内容の抜粋です、しかしNHKの戦争嫌いの幹部からの反対からか放送することは出来ませんでした。


映画主題歌第1号
昭和4年「東京行進曲」それまでは巷で流行し後に映画が作られた場合はあったが「東京行進曲」は最初から映画主題歌 として制作されました、洋行帰りの西条八十が詩を付け中山晋平の曲付け唄は佐藤千夜子によって世に出て当時としては 驚異的な25万枚の売り上げになりました、行進曲というからには軍艦マーチのような勇壮な曲と思っていたら艶かしい 女性の歌声で目を白黒させたということです。


専属制度のはじまり
昭和3,4年流行歌の黎明期はまだその世界が手探り状態でした、「波浮の港」「君恋し」「東京行進曲」と予想外のヒットで 流行歌はレコードにより流行ると知った会社は、歌手だけでなく作曲家作詞家も専属として抱えました、この専属制度はまず ビクターで中山晋平、西条八十、佐々紅華、時雨音羽らが専属になりました。
現代になって著作権法改定により音源の使用が厳しく取り締まりされるようになりJASRACに登録されている曲でも、 この「レコード会社専属」と印が付いた曲は使用できないといった不思議な弊害を誰が予想したであろう。


おそれおおくもで改名
昭和10年、大正天皇の第四皇子崇仁親王が成人され宮号三笠宮を賜りました。 笠置シズ子は大阪松竹楽劇部生徒養成所で三笠静子の芸名で活躍していましたが おそれおおいこととして笠置シズ子に改名しました。 もう1つこちらは人ではなく山です、「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも 」阿倍仲麻呂の歌に歌われた 奈良の三笠山もおそれおおいと若草山に改名されました。 最近汚染米を全国に撒き散らしたとんでもない業者の名も三笠フーズ、こちらはおそれおおいなど、とんとかんちせず 名乗っていますが三笠の名を汚したのは間違い有りません。


戦前の韓中台歌謡史
昭和初期から戦中にかけて日本コロムビアが韓国や台湾、中国で録音したレコードの原盤が国立民族博物館に四半世紀にわたって 保管されていたわかった、曲名などの記載が無く民博の研究グループにより解析され5年がかりでデータベースが完成した。 この記事は産経新聞に「埋もれた日韓歌謡史」として連載されました。 孫牧人、テイチク系のオーケーレコード専属作曲家で日本名久我山明「カスバの女」のヒットが知られています。また司潤吉の名で 「ハワイの夜」「弥太郎旅唄」のヒットもあります、昭和32年に帰国し韓国音楽著作権協会を発足させ初代会長に就いた。 韓国に戻ってからも自分の著作権管理などで頻繁に日本を訪れていました、日本語がうまくなかったから知人も少なく11歳年下の 村沢良介が唯一の友達であった(村沢は歌手村沢可夫から作曲家に転進し「愛ちゃんはお嫁に」のヒットをだしました)平成11年 「明日一緒に食事をしよう」と約束したまま東京で病死しました。 韓国では独立後最近まで戦前の韓国歌謡は「倭色」だとして敬遠されていた、日本との文化の橋渡しを担った孫牧人にとっては不本意だったに 違いない。


歌手鶴田浩二誕生秘話
鶴田浩二の師匠は高田浩吉であることは知られています、ある時その師匠がポリドールのディレクターに 「鶴田は歌いけるんだよ」となにげなく言ったのが耳にとまり、しばらくしてそのディレクターから 呼び出しがかかりスタジオへ行ってみると既に曲(男の夜曲)が完成していてピアノで聴かせた先生が 小西 潤(戦前は小西信義で数曲だしています)その歌声を聞いて、なんて綺麗な声だろうレコード歌手 と言うものはこういった声でなければ通用しないんだと私の声ではとてもとてもと思い逃げるように 帰りました、ことろが相手は諦めず小西 潤についてレッスンをやらされデビューとなりました、 この男の夜曲は結構売れましたが皮肉なことにしばらくしてポリドールが潰れてしまいました、 鶴田浩二の本格的歌手活動はビクターに移ってから全盛を迎えます。 最初の先生小西 潤の子息も音楽家として活動しています。


古賀政男のギター
明大マンドリンクラブの古賀政男の後輩で竹岡信行が言うには「古賀先生は今までに無い独特の音色とテクニックで私たちを魅了した」 と言っていますが、あの音色はとても他人が出せるものではありません、私など素人バンドの先輩から「お前の音は柔らかくてちょっと 違うな」といわれたことがありますが「古賀政男ギター教則本」のソノシートを聴きながら練習したので少しは音色が似ていたのでしょうか でもテクニックは全く真似できません。戦後のレコード「湯の町エレジー」「湯の町物語」などのギター前奏など聴いていると惚れ惚れします。 昔ギターを始めた人はこのレコードを聴いてやり始めたのが多かったとおもいますよ。


カスバの女
「カスバの女」作詞大高ひさお、作曲久我山明、唄エト邦枝 昭和30年 テイチク カスバとはアルジェリエの首都アルジェの要塞の意味です、アルジェは要塞都市で外敵の侵入を防ぐため入り組んだ迷路になっています。 曲はフランス外人部隊が内容になっています、1831年アルジェリア征服戦争に外国人が投入されたのがその部隊名となっています。 戦前は中国大陸が大半であった地名入りの流行歌には戦後は軍の検閲から解放され外国の地名を題した曲が多く作られました、ハワイ、サンフランシスコ、ロンドン 等が有りますがアルジェリエが舞台とはちょっと異質なものでした。 この曲は発売当時ヒットすることもなく後の42年リバイバルで有名になりました、エト邦枝は昭和22年コロムビアで歌手デビューしますが当初は宇佐美エトと名乗っていました 後にテイチクに移りエト邦枝と改名しました、昭和22年から31年の間50曲余り発売されていますがヒット曲はほとんどありません。 リバイバルで有名にならなかったら誰にも知られず忘れ去られた歌手だったと思います。 作曲の久我山明は半島出身でテイチク、ビクター専属で他に「木浦の涙」「ハワイの夜」「弥太郎旅唄」のヒットがあります、後に帰郷し韓国著作権協会設立などに貢献し ました、幾度も日本に来日し友人の作曲家村沢良介と会う約束をしながら東京で亡くなっています。


星野貞志
サトウハチローの変名、サトウハチローだけでなく歌手あるいは作曲家作詞家は一人で多くの変名を持った人が多くあります。
サトウハチローは熱田房夫、上野操六、江川真夫、倉仲住人、倉中房雄、清水七郎、清水操六、玉川映二、玉川英二、並木せんざ、山野三郎、星野貞志とたくさんの変名があります、 星野貞志のエピソードですが星令子の亭主であるマキノ満男に「からくりオペラ」の原作を書くよう依頼を受けた時その主題歌の作詞は洒落で「星の亭主」をもじって星野貞志としたと 本人が言っていたとか、この人はユーモアのある人でした。


連絡船の唄
長い間この唄は青函連絡船洞爺丸のことを歌ったものだと勘違いしていましたが洞爺丸の遭難は昭和29年のことで連絡船の唄は26年ですから時期が合いません 、で洞爺丸の方は「還らぬ連絡船」で「七里浜哀歌」とカップリングで昭和29年に出ています。
連絡船の唄誕生のいきさつは菅原都々子が戦後まもなくテイチクの倉庫で見つけた「連絡船は出て行く」という朝鮮半島のSPレコードでした、昭和12年張世貞が歌い半島でヒットした 唄で下関と釜山を結んだ関釜連絡船を題材にした曲です、戦前には半島でヒットした曲は日本でははやらなかったといいます、菅原はどうしても歌いたいと思っていたが 昭和26年にチャンスが巡りました、田端義夫の「玄海エレジー」の裏面に「連絡船の唄」を入れて発売され、同じ年に「江の島エレジー」が大ヒットで一躍スターダムにのし上がる と相乗効果で「連絡船の唄」もヒットしました、張世貞は戦後何度も来日し菅原と同じ舞台に立ったこともありましたが6年前米国で亡くなりました。


船もの
清水みのる、倉若晴生、田端義夫の3人のコンビによる「船もの」は「歌う造船所」と言われて「○○船」という曲をたくさん作っています。
今になって不思議なのは戦前には「別れ船」の1曲のみで、この曲は結構ヒットしたので続いて作られても良いような気がしますが、全て戦後に廻っています。 戦時下と言う特殊な環境がそうさせたのか、ただ21年に帰還船にぴったり合わせて「かえり船」が作られたのは出来すぎのような気がします。 このことを見越して「かえり船」は大事にしまっておいたのか、うがった考えもしてみたくなります。 「かえり船」が時流に乗って大ヒットすると「とまり船」「かよい船」「たより船」「ひとよ船」と次々作られました。


江戸言葉
流行歌も好きですが時代小説も三度の飯より(いややはり飯の方が好き)つまり時代小説ファンで大方の本は読みました、時代小説には江戸言葉が良く出てきます、江戸言葉研究と言えば亡くなった杉浦日向子、その先生の林好美また 池波正太郎、司馬遼太郎、柴田錬三郎などの大御所は当然研究しています。江戸の言葉で「擦り半」と言う言葉がありますが「擦り半鐘」のことで火事がすぐ 近くに迫っているとき鳴らす半鐘を言います(半鐘の中を引っ掻き回す)、ひばりの「お祭りマンボ」の中で「火事は近いぞ擦り半だ」と唄われています、作詞は原六朗この人は相当な 見識があった人でしょう、現在の人で時代小説ファン以外ではとても知らない言葉です。 昔は股旅歌謡など江戸時代の背景の詩が多くあり原六朗以外でも著名な作詞家は良く研究して作詞しています。でももう江戸言葉が混じるような曲はでないだろう淋しい限りです。


ゼロアワー
昭和17年2月から開始されたラジオ番組で対敵謀略放送で東京ローズの戸栗郁子この人は叔母の見舞いに来日していた時に日米開戦で 帰れなくなり生活のため同盟通信社で外国の短波放送傍受の仕事につく、後にゼロアワーの日本語原稿を英訳する仕事であったが女性アナウンサーとして原稿を読むことになる これが前線のアメリカ軍兵士らに評判となり「東京ローズ」と呼ばれた、終戦で戦犯容疑で投獄されるが釈放されアメリカに帰国するが反逆罪で禁固10年の有罪となり 服役するが支援活動により市民権を回復する
この東京ローズと一緒にゼロアワーに出演しジャズを歌っていたのが淡谷のり子で彼女は軍歌は一切歌わずにいましたが好きなジャズでは協力していたのでしょう 終戦間際までゼロアワーで歌っていたのが不本意であったが戦後のジャズブームに影響を与えた。 アメリカ軍兵士らには東京ローズ以上に淡谷のり子の歌声が評判を取っていたにちがいありません。


シンガーソングライター
近年といってもフォークソングが流行った20年も以前から自分の歌う曲を自分で作曲するようになり専門の作曲家は演歌のみとなった感があります。
歌手は作曲家の先生から自分が歌う曲を有り難く頂戴しますが中には嫌な曲もあったでしょう、 嫌いな歌を嫌々歌うより自分好みの曲ならとっても自然で良いように思います。
ところで戦前から昭和前期にかけてのシンガーソングライターと言えば 林伊佐緒が有名です林伊佐緒の名で作曲する時もあれば多紀英二のペンネームの時もあります、また他の歌手の曲も書いていた、 彼の書いた曲はヒット曲が多かったので 本職の作曲家のようでもあります、余談ですが彼のデビュー時の歌手名は「マイフレンド」この名前は不評ですぐに止めた。 八州秀章も志摩光一で数曲吹き込んでいます、豊田一雄もテイチク時代に豊田定雄として柳田一夫で吹き込んだ曲があります彼は ピカ一の男前でした。藤山一郎、松平晃、近江俊郎、田端義夫、岡晴夫、春日八郎、三橋美智也、三波春夫なども自作していますがこれらは番外でしょう。


勘違い
現代の人がこの曲は大ヒット曲だと思っている曲が実は当時はパッとせず後々に流行ったという事実があります。 「カスバの女」はエト邦枝のヒット曲だと思われていますが当時はそれほど注目されず、エト邦枝という歌手自体 知られず消えて行った歌手でした、昭和42年に緑川アコがリバイバルするとヒットしてオリジナルのエト邦枝と言う歌手も 知られるようになりました。同じく昭和14年の「人生劇場」楠木繁夫も村田英雄がヒットさせたと言っても過言ではないでしょう。 作曲した古賀政男は不発に終わった曲を何曲も別の歌手に歌わしてヒットさせています。 北廉太郎なども後のマニアが注目して曲を発掘したのが真実で彼のヒット曲は「出船の歌」と「潮来夜船」くらいと思います。 ものの節によると現代人が大ヒット曲と思っている「麦と兵隊」は「北満だより」のB面でもあり当時はあまりヒットしなかった と言うことですがどうでしょう、この曲は火野葦平のベストセラー「麦と兵隊」が映画化された時の主題歌ということですが 疑問なのはA面に「北満だより」上原敏がきて東海林太郎の「麦と兵隊」がB面になっていることです、主題歌なら当然A面に きても良さそうなものなのに...
ヒットしたかしないはレコード売り上げ枚数で判断するしか方法はないのでしょう、 戦後はレコード売り上げ枚数の統計が会社でとられているようですからヒット曲の判別はとれるでしょう、戦前でもあったのでしょうが はたして会社に記録が残されているのでしょうか、潰れた会社も多くあり戦争で消失してしまったのもあるでしょう。


世が世なら
松平信博、この作曲家の曲は著作権フリーなので拙作のMIDIを公開しています。代表曲としては「侍ニッポン」が有名ですね
松平性からひょっとしてとは思っていましたが本当に松平郷松平家の20代当主で世が世ならお殿様です。
とは言っても松平郷松平家は大身の松平家とは違い「十八松平家」にも入っていない440石の旗本の身分でした。 でも将軍家の始祖である松平親氏直系の家であることから大名なみの待遇を受けていたようです。 懐メロ研究家の森一也氏がNHKラジオで話していました、殿様出身の作曲家は彼だけでしょうね。


スチールギター盗難
「明日はお立ちか」の前奏にスチールギターが使われていますが演奏者はスチールギターの第一人者の灰田晴彦 録音が終わって本来ならその日に持って帰るところ殺人的な混雑のため棚に置いて帰って後日取りに行くと 無くなっていました、特別に愛着があった楽器なので大変残念に思いましたが関係者から犯人が出るのを おもんばかって誰にも言わず忍んだと言うことです。


北に消えた歌声
2009.11.13産経新聞
昭和35年帰還事業で北朝鮮に渡った永田絃次郎(金永吉)が日本を離れる直前に書き残した色紙や写真が新潟市内で見つかった。 帰還事業の話が持ち上がってからは朝鮮中央芸術団の主要メンバーとなり帰還事業の"広告塔"として日本全国を公演して廻った。 北朝鮮に渡った渡った4年後訪朝団が永田の消息を尋ねると「彼はわが国の宝なので各地を公演して廻っている」と説明を受けたが 面会できなかった、実際には永田が日本への里帰りを希望したことから立場を悪くして40年ごろには消息が判らなくなった政治犯 収容所に送られたという説もある、地上の楽園に踊らされ広告塔として持ち上げられたあげくの結末でなんとも無茶苦茶な国へ 渡ったものである


戦友の遺骨を抱いて
この曲の作詞は逵原 実(つじはらみれい)他に曲が無いので不思議に思っていましたが彼は昭和17年のシンガポール攻略戦に従軍した 1兵士でした、敵弾に当たって戦死した戦友を思い戦地で作詞した、かれは普段から農民として詩を作っていましたが同じく参戦した寺島一等兵から ぜひ我々のことを詩として残して欲しいと頼まれていました、彼はシンガポール入場前の戦闘で戦死してしまいました、逵原氏は班長だったので 胸に遺骨を抱いて進撃しました、寺島一等兵が自分を護ってくれるそんな気持ちで詩にしました、この詩を最初南方戦線の陣中で発表、後に広く唄われるようになりました 逵原氏は無事に故郷の三重県多紀町に帰還できました。


異国の丘
昭和21年1月から開始されたNHK素人のど自慢の昭和23年に復員兵が歌った異国の丘、彼の名は中村耕造この曲は彼らがシベリアの 収容所で唄っていたものでした、当初の楽譜には作者不明とされていましたがやがて作曲は吉田正で作詞は増田幸冶あることが判明した 昭和18年吉田正は異国の丘の元になる「大興安嶺突破演習の歌」を作ります、それに収容所の増田幸冶が詩をつけ異国の丘が生まれます レコード化の時は佐伯孝夫によって補作されますが、元は「今日も明け行く異国の丘に」と始まりますそして2番が今日も寒空3番が今日も暮れ行くと 順を追うよう意図していましたがイメージとして暮れ行くの方が良いということになったようでが増田幸冶氏は補作して欲しくなかったようです 増田幸冶氏は昭和25年に帰国しますが彼を品川駅で迎えたのは作曲の吉田正氏でこの時二人の初めての出会いでした。


夜のプラットホーム
戦後の二葉あき子の歌唱が有名ですが実は戦前に淡谷のり子で吹き込まれましたがこの戦局に男女の別れ歌など軟弱でけしからんと 言うわけで発禁になりました、作曲した服部良一は快心の作なのでなんとか世に出したいと一計を思いついた外国の曲にしてしまえば よいと、曲名をI will be waiting(待ち侘びて)作曲者をHatterとして発売しました、この計略は見事成功、検閲に対するささやかな抵抗でした。


歌手人気投票
昭和27年平凡の歌手人気投票
     男性    女性
 1位 小畑 実   美空ひばり
 2位 岡 晴夫   奈良光枝
 3位 田端義夫   菅原都々子
 4位 灰田勝彦   二葉あき子
 5位 近江俊郎   渡辺はま子
 6位 藤山一郎   暁 テル子
 7位 津村 謙   榎本美佐江
 8位 鶴田六郎   荒井恵子
 9位 竹山逸郎   白鳥みづえ
10位 霧島 昇   笠置シズ子

美空ひばりはこの年初めて1位、男性歌手は津村、竹山以外まだまだ古参歌手が上位を占めています。


床屋の英ちゃん
床屋の英ちゃんこと下門英二、彼は昭和21年一月十九日第 1 回の「のど自慢」で合格となり、一躍スター並の人気を得た、彼は当時は床屋 で働いていた、当時の東京はまだ空襲の焼け跡だらけ娯楽はラジオくらい床屋の特権で1日中ラジオを聞いていて出場者募集を知り応募した。 集まったのは300人くらい、中々合格者がでない、彼が歌った「青春日記」がやっと合格した、当時は合格の鐘が鳴るのではなく係員が指で 丸を作って教えた。この合格によってNHKの地方局が開局するたびにゲストとして呼ばれるようになりちょっとしたスターになった。


戦後初期のポリドール幻の歌手
如月俊夫
大正7年佐賀県に生まれる、本名蒲原時男、昭和16年「南進航路」でデビュー、戦後は「君呼ぶ丘」1曲のみで歌謡会を去る

三原一夫
昭和5年大分県に生まれる、本名熊谷剛東邦音楽学校中退し古賀ギター教室に通う、昭和23年NHKのど自慢に合格、昭和24年「君呼ぶギター」でデビュー 昭和26年会社消滅後は地元に帰りギター教室を開く。

青山一郎
昭和2年東京に生まれる、本名鶴岡秀一、紅陵大学中退、作曲家の坂田義一に師事、昭和21年NHKのど自慢に合格、昭和22年「別れの夜汽車」でデビュー 昭和26年会社消滅後はフリー

谷垣 譲
大正4年兵庫県に生まれる、大阪音楽学校から内本實に師事、帝劇の歌手となる、昭和22年「ズンドコ人生」でデビュー 昭和26年会社消滅後は作曲家に転進




ド演歌に染まった歌手
昭和37年頃になるとそろそろド演歌が主流になりつつあり古参の歌手も染まって行きました。 もうとうが立っていてどう足掻いてもヒット曲など出ないのにそれでもひょっとしたらと情けないことです。 ひょっとしたのが「島育ち」の田端義夫、でもこの曲はド演歌ではありません、田端義夫がド演歌になったのは ミノルフォンに移籍してからだと思います。
ド演歌に染まった歌手たち
◎白根一男
○田端義夫
○大津美子
○松山恵子
○藤島桓夫
△菊池章子


パチンコ娘
業界紙によるとパチンコは大正14年にコリントゲームを改良したものが出始めとあるが 昭和28年に第1次黄金時代迎える
レコード化された「パチンコ娘」は
昭和26年01月 COL 今村幸子
昭和27年01月 COL 並木路子
昭和27年02月 TAI 浅草紅香/伏見竜二
昭和27年02月 KIN 若原一郎/照菊
今村幸子はこの1曲のみで吹き込みは見当たらない、調べてみると、コロムビアレコードは名古屋支社があり、ここでも 歌手の養成がおこなわれていたらしく、昭和25年に名古屋タイムズの流行歌一般募集に応募した服部美津子氏のパチンコ娘が当選して 養成歌手の今村幸子が選ばれて東京で吹き込みのはこびとなったと言うこと、片面は同時応募の「夜霧の船出」山田喜一氏作曲で 同じく養成歌手の奥村義金が吹き込みした、この歌手もこれ1曲のみで見当たらない、2人とも地元の期待大で 晴れてスターダムにのるかと期待されたが厳しい現実に勝てず散ってしまったと言うことか
昭和27年に映画「大当たりパチンコ娘」(出演:古川緑波・柳家金語楼)が作られ、歌手では田端義夫、川田晴久、石田一松が出ている、 上記の曲はこの映画の主題歌なのか?いやいや田端義夫の「知るや男の純情を」「別れ桟橋」とあります。



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